お菊

日本の安土桃山時代~江戸時代初期の人物、関白豊臣秀次の娘

お菊(おきく)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。2代関白豊臣秀次の処刑を免れた娘で、母は淡輪徹斎の養女の小督局[1]で後藤氏の出身。

おきく

お菊
生誕 文禄4年(1595年
死没 元和元年6月6日1615年7月1日
紀伊国
死因 処刑
墓地 法福寺
配偶者 山口兵内
父:豊臣秀次、母:小督局
養父/伯父:後藤興義
親戚 祖父:後藤政義、養祖父:淡輪隆重
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人物 編集

 
お菊の木造が納められた法福寺

文禄4年(1595年)8月2日、豊臣秀次の妻子、女房ら39人の眷族が処刑され、小督局も31歳で京都三条河原で処刑された[2]。辞世の句は下記。

生れ来て また歸るこそ 道なれや 雪のゆきゝの いともかしこし[3]

生後まもない女児は、益田少将[4]富田一白(左近将監)に救われて、密かに祖父の出身地である波有手村(ぼうでむら)の後藤六郎兵衛興義に預けられた。興義は、小督局の実父である後藤政義の嫡男で、小督局の兄、女児からは伯父にあたる[3]。この女児と同様に隆清院も処刑から逃れることができた。

女児は菊と名付けられ、20歳になると、紀伊国の代官である山口喜内の嫡男・兵内に嫁いだ[3]

ところがまもなく、大坂夏の陣が起こった。山口家は豊臣方に味方するが、兵内は大坂城に入って(菊の)義理の伯父の淡輪重政と共に樫井の戦いで討ち死にし、舅の喜内は紀伊に留まって紀州一揆を起こしたが、浅野家に鎮圧されて失敗したので、一族は尽く刑死されることになった。(淡輪家には紀伊藩士のものもあり、山口家の嫁いで数日であったため)菊のみが赦されることになったが、自ら共に処刑されることを望み、元和元年(1615年)6月6日に紀州南穂村の河原で刑死した[3]

後藤家の養母は菊を哀れみ、後藤家の菩提寺である楊柳山法福寺に菊の木像を納め、冥福を祈ったという[5]

登場作品 編集

脚注 編集

  1. ^ 「おここの方」ともいう。
  2. ^ 井上 1922, pp. 1021–1022.
  3. ^ a b c d 井上 1922, p. 1022.
  4. ^ 元は本願寺の僧侶で、豊臣秀次の祐筆の1人。秀次の眷族が送られた亀山に同行して秀次の妻子の助命に奔走した。
  5. ^ 浜(孝子越)街道に沿って”. 阪南市. 2022年4月4日閲覧。

参考文献 編集

外部リンク 編集