はえ座(はえざ、Musca)は現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座で、ハエがモチーフとされている[1][3]天の南極の近くに位置しており、日本国内では南大東島以北の地域からは星座の一部さえも見ることができない。

はえ座
Musca
Musca
属格 Muscae
略符 Mus
発音 英語発音: [ˈmʌskə]、属格:/ˈmʌsiː/
象徴 ハエ
概略位置:赤経  11h 19m 25.7s -  13h 51m 07.5s[1]
概略位置:赤緯 −64.64° - −75.68°[1]
広さ 138平方度[2]77位
バイエル符号/
フラムスティード番号
を持つ恒星数
13
3.0等より明るい恒星数 1
最輝星 α Mus(2.649
メシエ天体 0
隣接する星座 ふうちょう座
りゅうこつ座
ケンタウルス座
カメレオン座
コンパス座
みなみじゅうじ座
テンプレートを表示

主な天体 編集

小さい星座ながらα・βと2つの3等星があるほか、コールドウェルカタログに選ばれた2つの球状星団がある。

恒星 編集

2022年4月現在、国際天文学連合 (IAU) が認証した固有名を持つ恒星は1つもない[4]

星団・星雲・銀河 編集

 
惑星状星雲IC 4191。

その他 編集

由来と歴史 編集

16世紀末に考案された星座だが、星座名が現在の Musca に落ち着くまで250年近くの紆余曲折があった。

この星座の歴史は、オランダ航海士ペーテル・ケイセルフレデリック・デ・ハウトマン1595年から1597年にかけての東インド航海で残した観測記録を元に、フランドル生まれのオランダの天文学者ペトルス・プランシウスが同じくオランダの天文学者ヨドクス・ホンディウス英語版と協力して1598年に製作した天球儀に昆虫の姿を描いたことに始まる[3]。しかし、プランシウスが星座としての名称をこの天球儀に記さなかったため、のちに混乱が生まれることとなった。

ホンディウスは1600年1601年にも天球儀を製作しているが、これらにも昆虫の名称が記されなかった[12]。これに対して、オランダの天文学者ウィレム・ブラウ英語版は、1602年に製作した天球儀にラテン語でハエを意味する Musca と記し[13]カメレオンに襲われるハエの姿を描いた。また、1598年から1602年にかけて第二次観測を行ったデ・ハウトマンも、そのときの観測記録を元に1603年に製作した星表で、オランダ語で「ハエ」を意味する De Vlieghe と記していた[13][14]。ただしこの星表は、オランダ語のマレー語辞典の付録として掲載されたため、広く天文学者の間で知られることはなかった[15]。ブラウは、デ・ハウトマンの第二次航海の観測記録を元に修正を加えた天球儀を1603年に製作しており、こちらにも Musca と記している[13]

ところが、同年の1603年にヨハン・バイエルが出版した星図ウラノメトリア』では、ラテン語で「蜜蜂」を意味する APIS と記されてしまった。このバイエルの誤りについて、オランダの天文学者で天文学史家のエリー・デッカー英語版は、『ウラノメトリア』とホンディウスの天球儀の類似性を指摘し、「バイエルがホンディウス製作の天球儀のいずれかからデータをコピーしたため、この昆虫をハエと認識できず「蜜蜂」としてしまった」と結論付けている[15]

プランシウスは、1612年に製作した天球儀でようやくこの昆虫にギリシア語でハエを意味する Muia と命名した[3]。そして同時に、おひつじ座の横にあった星を使って昆虫の姿を描き、これに蜜蜂を意味する Apes と命名した[16]。こうしてプランシウスによって南天と北天に昆虫の星座が1つずつ設けられたが、このことがさらに混乱を深める結果となった。

17世紀初頭のドイツの天文学者ヤコブス・バルチウスは、1624年に出版した天文書『Usus Astronomicus Planisphaerii Stellati』の中で南天の昆虫を Mvsca と記した[17][注 1]。しかし北天の昆虫には、星表では蜜蜂を意味する Apes と記しながら[18]、星図ではスズメバチを意味する Vespa と記す[19]など混乱が見られた[16]。17世紀後半のポーランドの天文学者ヨハネス・ヘヴェリウスは、彼の死後の1690年に出版された星図『Firmamentum Sobiescianum』で、南北のいずれの昆虫も Musca とした[20][21]。また、18世紀初めのイギリスの天文学者ジョン・フラムスティードもまた、彼の死後1729年に出版された『天球図譜』でヘヴェリウスと同じく南北の昆虫どちらも Musca とした[22]。18世紀中頃のフランスの天文学者ラカーユは、1756年の星図ではフランス語でla Mouche[23]、1763年の星図ではラテン語で Musca[24]と、明確にハエの星座として記載している。

このように、17世紀から18世紀にかけて南天の昆虫の星座はハエと見做されていた。しかし、ドイツの天文学者ヨハン・ボーデ1801年に刊行した星図『ウラノグラフィア』で、北天の昆虫を Musca 、南天の昆虫を蜜蜂を意味する Apis としたことによって再び混乱が生じた。その後、1822年にイギリスの教育者アレクサンダー・ジェイミソンが出版した星図『Celestial Atlas』[注 2]では、北天の昆虫に「北のハエ」を意味する Musca Borealis と記されていた[25]が、南天の昆虫には名前が記載されなかった[26]。また、1835年にアメリカの教育者イライジャー・バリットが出版した星図『Celestial Atlas』[注 3]では、南天の昆虫はにラテン語で「インドのハエ」を意味する Musca Indica と記され、北天の昆虫のほうが Musca とされた。

この混乱に終止符を打ったのは、19世紀初めのイギリスの天文学者フランシス・ベイリーであった。ベイリーが編纂し、彼の死後の1845年に刊行された『The Catalogue of Stars of the British Association for the Advancement of Science』では、これまで100以上あった星座が87個に整理された。このとき北天の昆虫は駆除されて南天の昆虫のみが生き残り、その名称は Musca とされた[27]。こうして、プランシウスが図案化して以来250年近く続いた星座名の混乱がようやく収拾された。

1922年5月にローマで開催されたIAUの設立総会で現行の88星座が定められた際にそのうちの1つとして選定され、星座名は Musca、略称は Mus と正式に定められた[28]。新しい星座のため星座にまつわる神話や伝承はない。

中国 編集

現在のはえ座の領域は中国の歴代王朝の版図からはほとんど見ることができなかったため、三垣二十八宿には含まれなかった。この領域の星々が初めて記されたのは明朝末期の1631年から1635年にかけてイエズス会士アダム・シャールや徐光啓らにより編纂された天文書『崇禎暦書』で、はえ座の星々は「蜜蜂」という星官に配された。これは、バイエルの『ウラノメトリア』の Apis がそのまま訳されて使われたものと考えられている。

呼称と方言 編集

明治末期頃は、おひつじ座の隣に置かれた Musca Borealis と区別して、それぞれ「南蠅」「北蠅」と呼ばれていたことが、1910年(明治43年)2月刊行の日本天文学会の会報『天文月報』第2巻11号に掲載された「星座名」という記事でうかがい知ることができる[29]。IAUが88星座を定めた後の1925年(大正14年)に初版が刊行された『理科年表』では、学名は Musca、星座名は「蠅(はへ)」とされた[30]。この後は、1944年(昭和19年)に天文学用語が見直された際も変わらず「蠅(はへ)」が使われることとされ[31]、戦後も「蠅(はへ)」が引き続き使われていた[32]。しかし、1952年(昭和27年)7月に日本天文学会が「星座名はひらがなまたはカタカナで表記する」[33]とした際に、Musca の星座名は「はい[注 4]」と改訂された[35]。これ以降は40年近く見直されることなく「はい」という星座名が使われていたが、1990年11月刊行の理科年表第64冊でようやく「はえ」と改められ[36]1994年刊行の『文部省 学術用語集・天文学編』増訂版で正式に星座名が「はえ」と改訂された[37]。以降は改訂されることなく「はえ」が正式な星座名として使われている。

現代の中国では: 蒼蠅座[38]: 苍蝇座)と呼ばれている。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 当時uを表すのにvが使われていた。
  2. ^ いわゆる『ジェミーソン星図』。
  3. ^ いわゆる『バリット星図』。
  4. ^ 「はい」はハエを意味する東京方言とされる[34]

出典 編集

  1. ^ a b c The Constellations”. 国際天文学連合. 2023年1月29日閲覧。
  2. ^ 星座名・星座略符一覧(面積順)”. 国立天文台(NAOJ). 2023年1月1日閲覧。
  3. ^ a b c Ridpath, Ian. “Musca”. Star Tales. 2023年1月29日閲覧。
  4. ^ Mamajek, Eric E. (2022年4月4日). “IAU Catalog of Star Names (IAU-CSN)”. 国際天文学連合. 2023年1月28日閲覧。
  5. ^ "alp Mus". SIMBAD. Centre de données astronomiques de Strasbourg. 2023年1月29日閲覧
  6. ^ Samus’, N. N.; Kazarovets, E. V.; Durlevich, O. V.; Kireeva, N. N.; Pastukhova, E. N. (2017). “General catalogue of variable stars: Version GCVS 5.1”. Astronomy Reports (Pleiades Publishing Ltd) 61 (1): 80–88. Bibcode2017ARep...61...80S. doi:10.1134/s1063772917010085. ISSN 1063-7729. https://vizier.cds.unistra.fr/viz-bin/VizieR-5?-ref=VIZ63d65d7f2887c6&-out.add=.&-source=B/gcvs/gcvs_cat&recno=30639. 
  7. ^ "bet Mus". SIMBAD. Centre de données astronomiques de Strasbourg. 2023年2月3日閲覧
  8. ^ "tet Mus". SIMBAD. Centre de données astronomiques de Strasbourg. 2023年2月4日閲覧
  9. ^ Sugawara, Y.; Tsuboi, Y.; Maeda, Y. (2008). “Redshifted emission lines and radiative recombination continuum from the Wolf-Rayet binary θ Muscae: evidence for a triplet system?”. Astronomy & Astrophysics 490 (1): 259-264. arXiv:0810.1208. Bibcode2008A&A...490..259S. doi:10.1051/0004-6361:20079302. ISSN 0004-6361. 
  10. ^ Index Catalog Objects: IC 4150 - 4199”. Website of Professor of Astronomy and Author Courtney Seligman (2013年11月15日). 2023年2月4日閲覧。
  11. ^ Nova Muscae 1991”. www.eso.org. 2023年1月29日閲覧。
  12. ^ Dekker 1987a, pp. 213–214, 222.
  13. ^ a b c Dekker 1987a, p. 222.
  14. ^ de Houtman, Frederick (1603) (オランダ語). Spraeck ende woord-boeck inde Maleysche ende Madagaskarsche talen, met vele Arabische ende Turcsche woorden ... : Noch zijn hier byghevoecht de declinatien van vele vaste sterren, staende omtrent den Zuyd-pool .... Amstelredam,: Jan Evertsz. Cloppenburch. p. 241. OCLC 68675342. https://objects.library.uu.nl/reader/index.php?obj=1874-205055&lan=en#page//94/39/69/94396929590098531808397229639570978844.jpg/mode/1up 
  15. ^ a b Dekker 1987a, p. 214.
  16. ^ a b Ridpath, Ian. “Musca Borealis”. Star Tales. 2023年2月4日閲覧。
  17. ^ Bartsch 1624, p. 66.
  18. ^ Bartsch 1624, p. 57.
  19. ^ Ridpath, Ian. “Jacob Bartsch and seven new constellations”. Star Tales. 2023年2月4日閲覧。
  20. ^ Hevelius, Johannes (1690). “Catalogi Fixarum”. Prodromus Astronomiae. Gedani: typis J.-Z. Stollii. p. 285. OCLC 23633465. https://www.e-rara.ch/zut/content/zoom/133876 
  21. ^ Hevelius, Johannes (1690). “Catalogi Fixarum”. Prodromus Astronomiae. Gedani: typis J.-Z. Stollii. p. 286. OCLC 23633465. https://www.e-rara.ch/zut/content/zoom/133877 
  22. ^ Flamsteed, John; Crosthwait, Joseph; Flamsteed, Margaret; Hodgson, James; Sharp, Abraham; Gibson, Thomas; Vertue, George; Catenaro, Juan Bautista et al. (1729). Atlas coelestis. London. pp. 123-127. OCLC 8418211. https://archive.org/details/atlascoelestis00flam/page/n123/mode/2up 
  23. ^ Histoire de l'Académie royale des sciences” (フランス語). Gallica. 2023年2月4日閲覧。
  24. ^ Coelum australe stelliferum / N. L. de Lacaille”. e-rara. 2023年2月4日閲覧。
  25. ^ Jamieson 1822, p. PLATE XIII.
  26. ^ Jamieson 1822, p. PLATE XXVIII.
  27. ^ Baily, Francis (1845). The Catalogue of Stars of the British Association for the Advancement of Science. London: R. and J. E. Taylor. Bibcode1845tcot.book.....B 
  28. ^ Ridpath, Ian. “The IAU list of the 88 constellations and their abbreviations”. Star Tales. 2023年1月29日閲覧。
  29. ^ 星座名」『天文月報』第2巻第11号、1910年2月、11頁、ISSN 0374-2466 
  30. ^ 東京天文台 編『理科年表 第1冊丸善、1925年、61-64頁https://dl.ndl.go.jp/pid/977669/1/39 
  31. ^ 学術研究会議 編「星座名」『天文術語集』1944年1月、10頁。doi:10.11501/1124236https://dl.ndl.go.jp/pid/1124236/1/9 
  32. ^ 東京天文台 編『理科年表 第22冊丸善、1949年、天 34頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1124234/1/61 
  33. ^ 『文部省学術用語集天文学編(増訂版)』(第1刷)日本学術振興会、1994年11月15日、316頁。ISBN 4-8181-9404-2 
  34. ^ 原恵『星座の文化史』玉川大学出版部〈玉川選書〉、1982年7月、115頁。ISBN 978-4472154720 
  35. ^ 星座名」『天文月報』第45巻第10号、1952年10月、158頁、ISSN 0374-2466 
  36. ^ 国立天文台 編『理科年表〈第64冊(平成3年)〉』丸善、1990年11月。ISBN 978-4621035375 
  37. ^ 『文部省学術用語集天文学編(増訂版)』(第1刷)日本学術振興会、1994年11月15日、305-306頁。ISBN 4-8181-9404-2 
  38. ^ 大崎正次「辛亥革命以後の星座」『中国の星座の歴史』雄山閣出版、1987年5月5日、115-118頁。ISBN 4-639-00647-0 

参考文献 編集