アイダ・メアリー・バリー・ライアン

アイダ・メアリー・バリー・ライアン1854年12月21日 - 1917年10月17日英語:Ida Mary Barry Ryan)は、アメリカ人の慈善家である。建築活動や寄付活動だけでなく100軒以上の教会、礼拝堂、病院、および様々な慈善事業を支援しており、それらのために300万米国ドル以上の資金を提供した[1]

アイダ・メアリー・バリー・ライアン
生誕 アイダ・メアリー・バリー
(1854-12-21) 1854年12月21日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
メリーランド州ボルチモア
死没 1917年10月17日(1917-10-17)(62歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州ロックランド郡サファーン
職業 慈善家
配偶者
子供 8人
親戚 アラン・アロイジアス・ライアン・ジュニア英語版(孫)
クレデニン・ジェームス・ライアン英語版(孫)
サラ・タック・ライアン英語版(孫)
エアリー伯爵夫人ヴァージニア・オグルビー英語版(曾孫)
ピーター・バリー・ライアン英語版(曾孫)
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若年期 編集

1854年12月21日[2]、アメリカ合衆国のメリーランド州ボルチモアで生まれる[1]。父親は著名な小売商かつバルチモアと西インド諸島との間を定期的に往復する商船の所有者[3][4]のジョン・スミス・バリー船長(1829年-1872年)である[2] 。バリー船長はバージニア州アレクサンドリア出身の大陸軍大佐であるデニス・ラムゼー大佐の娘のアメリアと結婚した[1]。母親はロザリー・(ヒーランド)・バリー(1832年-1905年)である。アイダには10人の兄弟姉妹がいた[2]。以下に記す。

  • ベンジャミン・ヒーランド・バリー(1849年-1850年)
  • ロバート・バリー(1851年-1854年)
  • ジョン・S・バリー(1853年-1854年)
  • アナ・ヒーランド・バリー(1857年-1857年)
  • ロザリー・C・バリー(1859年-没年不明)
  • ジョン・S・バリー(1861年-1862年)
  • アメリア・R・バリー(1862年-1863年)
  • ヘンリー・A・バリー(1863年-1892年)
  • J・バードウェル・バリー(1866年-1867年)
  • ジョセフ・アレン・バリー(1869年-1939年)

経歴 編集

1873年11月25日に金融業者のトーマス・フォーチュン・ライアン英語版と結婚した[5][6]。夫妻は特にバージニア州の教会の慈善団体や慈善事業のために多額の寄付を行った。2人はバージニア州リッチモンド聖心大聖堂の内観を手がけた。その資金として夫のトーマス・フォーチュン・ライアンから50万米国ドルが市に提供されたとされる。聖心教会、ワシントン病棟、聖心カテドラル学校リッチモンド校や、バージニア州フォールズチャーチに教会と修道院を建てたりもした。バージニア州のホットスプリングス英語版ハリスバーグ英語版ウェストバージニア州カイザー英語版の教会やニューヨーク州ロックランド郡サファーンのチャペルにも寄付を行った。サファーンには2人の夏の別荘があり、ワシントンD.C.ジョージタウンにあるジョージタウン大学に対してライアン寮とウィングを同時に提供した[3][4]。彼女はニューヨーク市の慈善団体であるシスターズ・オブ・チャリティー(Sisters of Charity)のために病院別館を建てた[5]

私生活と遺産 編集

 
ジョージタウン大学開校後のアイダ・ライアン寮(1903年-1907年)

ライアン夫妻には8人の子供がいた[2]。以下に記す。

  • ジョン・バリー・ライアン・ジュニア(1874年-1942年)
  • トーマス・フォーチュン・ライアン・ジュニア(1876年-1882年)
  • ウィリアム・キーン・ライアン(1878年-1906年)
  • アラン・アロイジアス・ライアン・シニア(1880年-1940年)
  • クレデニン・ジェームス・ライアン・シニア(1882年-1939年)
  • メアリー・ロレッタ・ライアン(1884年-1889年)
  • ジェームス・ジョセフ・ライアン(1890年-1920年)
  • メリー・ライアン(1892年-没年不明)

1915年には夫妻でカリフォルニア州を訪れた[7]

1917年10月17日、サファーンにある自宅で突然病気に陥った後に心臓疾患のため没した[7][5] 。遺骸はセント・アンドリュー・オン・ハドソン修道院に埋葬された[8]

栄誉 編集

彼女の慈善事業に対して、ローマ教皇ピウス10世より大聖グレゴリウス勲章を授与された他、伯爵夫人の栄誉を与えられた[3][4]

脚注 編集

  1. ^ a b c (英語) Who's who in New York City and State. L.R. Hamersly Company. (1907). p. 1138. https://books.google.com/books?id=0V1IAAAAYAAJ&pg=PA1138 2022年6月15日閲覧。   この記事には現在パブリックドメインとなった次の出版物からの記述が含まれています。
  2. ^ a b c d Ida Mary Barry 21 December 1854 – 17 October 1917 • LZGY-62Q”. ident.familysearch.org. 2022年6月15日閲覧。
  3. ^ a b c Logan, Mrs John A. (1912) (英語). The Part Taken by Women in American History. Perry-Nalle publishing Company. p. 536. https://en.wikisource.org/wiki/Page:The_part_taken_by_women_in_American_history.djvu/575 2022年6月15日閲覧。    この記事には現在パブリックドメインとなった次の出版物からの記述が含まれています。
  4. ^ a b c (英語) The American Catholic Who's who. NC News Service. (1911). p. 572. https://books.google.com/books?id=J6wNAQAAIAAJ&pg=PA572 2022年6月15日閲覧。   この記事には現在パブリックドメインとなった次の出版物からの記述が含まれています。
  5. ^ a b c “MRS. THOMAS F. RYAN DIES” (英語). The Brooklyn Daily Eagle: p. 20. (1917年10月18日). https://www.newspapers.com/image/686928722/?terms=Ida%20Barry%20Ryan&match=1 2022年6月15日閲覧。   この記事には現在パブリックドメインとなった次の出版物からの記述が含まれています。
  6. ^ Harper, Charles G. (July 1905). “A New Leader in Finance. Thos. F. Ryan, King of Equitable, has done great work. He has large interests in and about Michigan. A Pere Marquette Reorganizer.” (英語). The Gateway IV (6). https://books.google.com/books?id=P3VMAAAAMAAJ&pg=RA11-PA34 2022年6月15日閲覧。.   この記事には現在パブリックドメインとなった次の出版物からの記述が含まれています。
  7. ^ a b “THOMAS F. RYAN 12-DAY WIDOWER TAKES A BRIDE” (英語). San Francisco Examiner: p. 1. (1917年10月30日). https://www.newspapers.com/image/458000213/?terms=Thomas%20F.%20Ryan&match=1 2022年6月15日閲覧。   この記事には現在パブリックドメインとなった次の出版物からの記述が含まれています。
  8. ^ “DIED” (英語). New York Herald: p. 5. (1917年10月20日). https://www.newspapers.com/image/207351680/?terms=Ida%20Barry%20Ryan&match=1 2022年6月15日閲覧。   この記事には現在パブリックドメインとなった次の出版物からの記述が含まれています。