アサヒビール

アサヒビール株式会社
ASAHI BREWERIES, LTD.
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アサヒビール本社ビル。隣接するスーパードライホールの上にある「炎のオブジェ」はフィリップ・スタルクによってデザインされたもので、”躍進するアサヒビールの心”を象徴している。
種類 株式会社
市場情報 非上場
略称 アサヒ
本社所在地 日本の旗 日本
130-8602
東京都墨田区吾妻橋一丁目23番1号
設立 2010年8月10日(創業1889年
業種 食料品
事業内容 酒類などの飲料食品薬品
代表者 小路明善(代表取締役社長)
資本金 200億円
決算期 12月31日
主要株主 アサヒグループホールディングス株式会社 100%
主要子会社 ニッカウヰスキー株式会社100%
関係する人物 山本為三郎村井勉樋口廣太郎中條高徳瀬戸雄三
外部リンク http://www.asahibeer.co.jp/
特記事項:(旧)アサヒビール株式会社が2011年7月1日に持株会社移行に伴い「アサヒグループホールディングス株式会社」に商号を変更したのに伴い、会社分割により旧アサヒビール株式会社の現業を引き継ぐ形で新法人の「アサヒビール株式会社」が発足した。

アサヒビール株式会社: Asahi Breweries, Ltd.)は、日本の大手ビールメーカー。

概要

1949年昭和24年)、大日本麦酒株式会社の分割により設立。分割後は主に西日本で展開し、1954年から1960年まで日本のビール市場占有率で2位を維持していたが、1961年に3位になって以降シェア低下傾向が続き、1980年代前半から中盤は4位寸前の低迷期に陥った。しかし、外部出身の社長主導による社内改革の進展や、現在も主力商品となっている「アサヒスーパードライ」の発売以降、驚異的に経営状態を回復して1988年には2位となり、1998年にはビール単独、2001年にはビール類(ビールと発泡酒の合計)市場におけるシェアで1位となった。

2000年代からウイスキーブランデーなどの洋酒事業や焼酎などの分野にも子会社を通じて本格参入した。

2011年7月1日持株会社移行に伴い「(旧)アサヒビール株式会社」は「アサヒグループホールディングス株式会社」に商号を変更した。同日、会社分割により現在の法人である「(新)アサヒビール株式会社」(2010年8月10日に「(旧)アサヒグループホールディングス」として設立)に現業全般の移譲がなされた。アサヒビールが、日本の大手ビールメーカー4社の内、最後に持株会社に移行した。

スポーツ新聞4紙(日刊スポーツスポーツニッポンスポーツ報知サンケイスポーツ、いずれも東京本社発行版のみ)及び夕刊フジ日刊ゲンダイの1面に連日広告を掲載している。

企業スローガンは、『その感動を、わかちあう。』。

歴史

アサヒスーパードライ

1889年明治22年)創業。1949年昭和24年)の大日本麦酒株式会社の分割により設立。

大日本麦酒の分割は、同社を主要ブランドであるアサヒビール(西日本で販売)とサッポロビール(東日本で販売)に分割する形を取ったが、この分割を推進した大日本麦酒の山本為三郎専務が朝日麦酒の初代社長に就任したため、様々な憶測を呼んだ。山本は大日本麦酒に合併された日本麦酒鉱泉の出身であり、その同社から継承した商品でかつ全国ブランドとして知名度のあったユニオンビールと三ツ矢サイダーの2銘柄を朝日麦酒が継承した他、戦前大日本麦酒は設備投資を西日本に集中して行っていたため、その結果最新鋭設備の殆どが朝日麦酒の帰属となっていたのがその主な理由であった。

更に西日本では戦前からアサヒブランドが定着していたため、新生アサヒビールも西日本を中心とした需要があった。ビールの市場占有率(シェア)は分割時点において日本麦酒(現・サッポロビール)38.7%、朝日麦酒36.1%、麒麟麦酒25.3%と3社間で2位となり、引き続き1952年まで単独2位、1953年は原料配給の関係で日本・麒麟・朝日のシェアは3社同率の1位[1][2]、1954年は第1位が麒麟、2位が朝日、3位日本麦酒となり、1960年まで同社は2位を維持し[1]山本も関西財界の重鎮として活躍していた。

しかし、高度経済成長と共に東京への一極集中化が進むと、結局この山本が主導した地域偏重の分割がたたり、市場占有率は1961年に第3位へ降下し、1987年まで3位が定位置となっていた[1]。首都東京では同根で同じくブランド名に馴染みの無いニッポンビール(1964年にサッポロビールと改称)と競合。地元とも言える関西地区でも後発のサントリービールの発売に際し山本社長が支援に回ったため結局同一問屋内で競合関係になる負担が発生し、1970年代の生ビール競争も低迷した。

1980年代中盤には市場占有率10%を割り、1985年は9.6%と4位のサントリー(9.2%)に追い抜かれる寸前の状態で社内の状況において危機感は漂っており[1]、1985年までに資産売却が行われたが[3]、経営面で分割以来赤字経験がなかったことから深刻さは薄く、「夕日ビール」などと揶揄される状況でありながら、現状維持で満足する雰囲気もみられた[1]

この状況を改めるため、社長は住友銀行から連続で送り込まれ、過去にマツダを短期間で再建した経験がある村井勉が就任した[1]。村井は就任時から改革に取り組み実を結んだことで社内は活性化し、その中で「主力商品のビールの味とラベルを変更してアサヒの主張と心を知ってもらうべきではないか」との意見が社内で高まったことを受け、正式に主力ビールの味とCIマークの変更が決定された[1]。現状把握のためマーケティングリサーチとして1984年夏〜1985年夏に東京と大阪で計2回・5000人に味覚・嗜好調査を行い「若い人を中心に大半の消費者が苦みだけではなく、口に含んだときの味わい(コク)と喉ごしの快さ(キレ)を求めている」との結果を得て、同業他社を含めた従来の主力製品の持ち味「苦味の強い重い味」と異なり、消費者の認識変化で潜在的に求められていた「コク・キレ」をコンセプトに商品開発が進められた[1][4]

1986年(昭和61年)1月21日、改革の一環として進展していたCI活動「ニューセンチュリー計画」の発表が対外的に行われ、新CIマークに変更した。同日「コク・キレ」の味わいと新たなラベルを採用した「アサヒ生ビール」を発表[1]。アサヒ生ビールは同年2月に発売開始[5]。1986年3月、引き続き住友銀行から送り込まれた樋口廣太郎が社長に就任。この時期には、アサヒをサントリーへ売却する話が水面下で行われており、樋口は就任当初同社の清算を行う意図で送り込まれた部分が強かったが、売却交渉にてサントリーが断りを入れるという結末を迎えたことで方向転換することになった[3]。同年中はアサヒ生ビールに集中した積極的な個人・業務向け販促活動と大幅増額した宣伝活動を行い、当時新社長であった樋口も試飲キャンペーンの現場に立つと同時に消費者の意見を聞くなど陣頭指揮を行い、結果的に商品はヒットして同社全体の販売数量は前年比11.9%増の実績を残し、シェアも10.4%と10%台に戻した[1][6]

1986年3月、新商品の開発プロジェクト、コードネーム「FX」を開始[7]。同年6月に試作品が完成し、樋口など役員対象に試飲を実施してFXは高評価を得た。同年2月発売のアサヒ生ビールが好調だったことでFX商品化の最終段階において同社内商品の競合を懸念する声が社内から挙がったが、樋口の判断で「FX」の発売を決定[8]。FXは1987年1月21日に名称「アサヒスーパードライ」として発表され、同年3月17日に首都圏限定で販売を開始し、販売数量の同年目標は年間100万箱としていた[8]。アサヒスーパードライは、当時アサヒで発売されたビール新商品3種類の中でも地味な立場で、発売日前後のマスコミの扱いは小さく簡潔な紹介に留まっていた[1]。しかし、発売後問屋には続々と追加注文が入り、同年4月時点の出荷量で70万箱を達成し、同年5月には同年夏頃に予定していた全国販売を前倒しで開始した。販売目標も400万箱に上方修正し、同年8月には販売予測から生産能力を1年間で5割増加させる設備投資計画を始動。同年11月には販売目標を1200万箱と更に上方修正し、1987年の販売数量実績は1350万箱を達成[1]。スーパードライは1987年12月26日の日経流通新聞「62年ヒット商品番付」[9]で東横綱に選ばれる程のヒット商品となった[1]。1988年には同業他社がドライビールで挑んできたドライ戦争にも勝利を収め、売上高と市場占有率を劇的に回復し、同年のシェアはサッポロを抜き2位に回復[1]。1989年と1990年には積極的な設備投資を行い、1990年代からスーパードライに経営資源を集中し、それに特化した販売戦略と鮮度管理の強化を進める経営戦略が功を奏し[3]1998年平成10年)に日本国内でビールは市場占有率で1位となった(発泡酒を含めたビール類の市場占有率では当時2位)[1]

1990年代後半以降、他社が価格の安さと品質改良で発泡酒の売り上げを伸ばす中、アサヒは「アサヒはドライ一本、ビールのみで勝負します。発泡酒は発売しません」と宣言したこともあった[6][10]。理由として、スーパードライが順調に推移していたことや、発泡酒の開発初期段階で問題点の解消に手間取り、市場に出せる品質に中々達してなかった事情がある[6]。だが、デフレの流れで発泡酒のシェアが伸びる中、その間毎年のように同社が新発売したビールの新製品が不振であったことや、看板商品のスーパードライも売り上げに翳りが見え始めたこと、発泡酒開発当初の試作品が抱えていた特有の匂いと雑味の問題点を大麦エキスと海洋深層水を使用することで解消した。品質を満たした商品が出来上がったことで方針転換し「発泡酒カテゴリーが成立したから」と理由を説明して2001年(平成13年)2月に「本生」で発泡酒市場に参入した[6][10]。本生が好調だったことで2001年の発泡酒シェアにおいて同社は2位となり、日本の2001年ビール類(当時はビールと発泡酒が該当)シェアにおいてキリンを抜き1953年以来48年ぶりに首位に返り咲いた[2][6][11]

その後は発泡酒の増税もあり、2005年(平成17年)から所謂第三のビール市場にも参入。ただ、シェア競争の結果、2006年(平成18年)1-6月期にて6年ぶりにキリンビールに市場占有率首位を譲る形となったが、下半期に巻き返し、年間では僅差で首位を維持した。

鳥居薬品を1987年(昭和62年)に子会社化したが、1998年(平成10年)にJTへ保有株式を譲渡。

2001年(平成13年)、かねてから資本関係があったニッカウヰスキーの全株式を取得した上で同社を完全子会社化し、ウイスキーブランデーなどの洋酒事業に本格参入した。また、2002年(平成14年)には協和発酵(現:協和発酵キリン)旭化成の酒類事業(清酒を除く)を引き継ぎ、焼酎などの分野にも参入している。

大手ビール4社の中では唯一最後まで事業持株会社制度を堅持していたが、社会情勢の変化もあり、2011年(平成23年)7月1日付で事業会社を分離新設し、純粋持株会社制度に移行した。

沿革

ブランドの由来

大阪麦酒が名付けた「朝日(アサヒ)」というブランドの由来については諸説あるが、創業者・鳥井駒吉の出身地である堺市に縁のある以下の説がよく知られる。なお、設立当初は「朝日麦酒」ではなく「旭麦酒」と表記されていた。

「旭館」説
天保期に堺港の修築が行われた際、そこに新地(「龍神新地」、現在の南海本線堺駅西側付近)ができた。当時は港に面した風光明媚な場所として賑わったが、中でも「朝日ノ家」は堺屈指の茶屋として知られた。その「朝日ノ家」が閉鎖された後、堺の酒造組合の代表であった鳥井が1888年明治21年)、堺の酒造業者と政府の高官や財界人との交遊をはかる目的で、同地に社交倶楽部「旭館」を開設した。「旭館」は「朝日ノ家」から名付けたものだが、新たにビール事業に参入する際にも、この「朝日・旭」ブランドを重用し「旭麦酒」と命名した。
「旭橋」説
鳥井の生家(堺市甲斐町西2丁、現、堺市堺区甲斐町西2丁)そばを流れる内川に「旭橋」という名の橋が架かっており、自らの酒造業者としての原点を忘れないという思いを込めて「旭麦酒」とした。なお、「旭橋」の一部が、鳥井の生家跡から北東に進んだ場所にある「ザビエル公園」内に、また、「堺事件」の碑と天誅組の上陸地を示す「天誅組上陸地」の碑と並んだ場所に残されている。

主な商品

オリオンブランドの製品についてはオリオンビールの項も参照。

ビール

アサヒスーパードライ

業務用限定

発泡酒

新ジャンル(第3・第4のビール)

2010年3月現在製造されている商品はすべてリキュール(発泡性)①(「第4のビール」とも呼ばれる場合もある。アサヒでは「麦(由来)の新ジャンル」と呼んでいる)。

ビールテイスト飲料

外国ブランド

洋酒(ウイスキー、ブランデー、ワインなど)

2001年ニッカウヰスキーを完全子会社化したことにより、同社が製造するウイスキーやブランデーなどの販売はアサヒビールが行っている。また2002年、協和発酵工業の酒類部門を譲り受け、協和発酵傘下の「サントネージュワイン」を傘下に収めた。

焼酎

2002年、協和発酵工業と旭化成の酒類部門を譲り受け、協和発酵工業と旭化成が製造・販売していた甲類焼酎の販売を引き継いでおり、非常に多数の商品を作っている。原材料の一部に三笠フーズ事故米を使用していた商品の存在が発覚し、それについては自己回収を行い[15]、2009年4月から出荷を再開している。

甲類焼酎

協和発酵工業から販売を引き継いだ銘柄
旭化成から販売を引き継いだ銘柄

麦・米・芋・そばなどの焼酎

ほか

チューハイ・カクテル

旬果搾り

2002年、協和発酵工業と旭化成の酒類部門を譲り受け、協和発酵工業と旭化成が製造・販売していたチューハイ・カクテルの販売を引き継いだ(カクテルパートナー、ハイリキ、旬果搾り)。また、アサヒが独自にブランドも作っている。

上記商品は、通常はニッカウヰスキーの工場で生産されるが、工場の稼働状況によっては系列のアサヒ飲料およびアサヒビールの工場で生産される場合もある。

協和発酵工業から引き継いだブランドは「アサヒ協和酒類製造」が製造していたが、2005年度までにすべてニッカウヰスキー、又はアサヒ飲料・アサヒビールの製造に移管した。アサヒビールと旭化成との関係は1980年代に経営危機に陥った際、住友銀行(現三井住友銀行)の仲介で旭化成が筆頭株主となり、業務提携を行っていた事があった。

カクテルテイスト飲料

過去に発売した商品

ビール

地域限定ビール

これらの地域限定ビールは、それぞれの地域にゆかりがある、またはその地域の人気看板番組のレギュラーをCMキャラクターとして採用した。

発泡酒

ビールをフルーツジュースで割ったものだが、税法上は「発泡酒」となる。

新ジャンル(第3・第4のビール)

ファイル:Asahi Mugishibori 20101209.jpg
アサヒ麦搾り

ビールテイスト飲料

チューハイ・カクテル

カッコ内は発売期間。

以下はアサヒオリジナルブランド

発売後、缶蓋の巻き締めが不完全で、密封性が損なわれた商品が出荷された可能性があるとして自主回収。同時に販売終了となった。

他社から引き継いだチューハイ・カクテルブランド

甲類焼酎

スポーツドリンク

コーポレート・スローガン、キャッチコピー

メインロゴはデザイナーの上原昌が製作した。

コーポレート・スローガンやキャッチコピーではないが、2006年10月から、すべての酒類系飲料のCMにおいて、『飲酒運転は法律で禁止されています。』という字幕が出るようになった。

文化・スポーツ事業

文化事業・メセナ活動

美術音楽を中心とした展覧会や演奏会への支援、評価の定まらない若手芸術家の発表支援、地域づくりNPOへの支援など、日本で企業メセナ活動をもっとも活発に行っている企業の一つである[17]

CSR活動

スポーツ事業

スポーツ関連では、社会人アメリカンフットボールXリーグの「アサヒビールシルバースター」の展開をはじめ、2001年より野球日本代表のオフィシャルサプライヤーも務めている。

グループ企業のアサヒ飲料アサヒ飲料チャレンジャーズを保有し、グループ内にアメフトチームが2つ存在している。

歴代イメージガール


本社

工場

過去には吾妻橋工場(東京都墨田区。現在のアサヒビール本社ビル、リバーピア吾妻橋墨田区役所などが建っている場所)、東京大森工場(東京都大田区。現在、イトーヨーカドー大森店などが建っている場所)が存在したが、これらの工場は建物の老朽化、生産拠点の集約化、新工場の建設などで閉鎖された。

提供・広報

提供番組


また提供クレジットを出さず週替スポンサーに入ることも多い。

企業PR誌

CM出演者

ニッカウヰスキーのCMもアサヒビールが担当しているため、同社がアサヒビールの完全子会社になった2001年4月以降のCM出演者に関しては便宜上ここで記述する。競合社であるサントリーのCM出演経験者が多いのが特徴。

現在

ビール

アサヒ スーパードライ
アサヒ スーパードライ-ドライブラック-

発泡酒

アサヒ スタイルフリー

第3のビール(麦の新ジャンル)

クリアアサヒ
アサヒ オフ
アサヒ ストロングオフ
アサヒ 一番麦
アサヒ ブルーラベル

ノンアルコール

アサヒ ドライゼロ
アサヒ ダブルゼロカクテル

焼酎・ウイスキーその他

アサヒ カクテルパートナー
アサヒ すらっと
その他

ナレーター・CMソング

ナレーター
CMソング

過去

ナレーター

ほか、過去に存在した商品も参照。

脚注

注釈

  1. ^ 現在は、信託口の次の第3位株主。
  2. ^ 2006年にニッカウヰスキーと合併した。
  3. ^ 日本国内の事例として、漫画美味しんぼ』の作品「ドライビールの秘密(前編・後編)」(1989年、単行本第18巻)でドライビールを強烈に批判している。
  4. ^ 本来は3%のアルコール度数で発売する予定だったが、発売直前に現在のアルコール度数に変更されたという経緯があった。
  5. ^ 缶入りの元祖は、1984年宝酒造から発売されたタカラcanチューハイ。
  6. ^ 1992年、東洋醸造は旭化成と合併して旭化成の酒類事業部となる。
  7. ^ 一社提供番組及び筆頭スポンサーのみ。複数社提供は従来通り「アサヒビール」の表記を継続。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 清水信年; 流通科学大学 (1996年9月). “アサヒビール 〜ビール市場の創造と適応〜 (PDF)” (日本語). 現代経営学研究学会 第7回シンポジウム資料. 清水信年ゼミナール. 2010年12月4日閲覧。
  2. ^ a b 田村; 松山大学. “アサヒビール 48年ぶり年間シェア首位 長期不況化の主戦場は割安な発泡酒へ” (日本語). 時事関連. 田村. 2010年12月4日閲覧。
  3. ^ a b c 富田輝博 (2004年7月). “わが国ビール産業の競争政策と競争戦略 (PDF)” (日本語). 文教大学情報学部『情報研究』第31号. 文教大学湘南図書館. 2010年12月4日閲覧。
  4. ^ 永井隆 「第1章 消費者が飲みたいビールが日本にはなかった」『ビール15年戦争 すべてはドライから始まった』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年8月1日、第1刷、41から44ページ。ISBN 4-532-19139-4
  5. ^ 歴史・沿革 - アサヒビール
  6. ^ a b c d e サンクリエイト 『儲けを生み出すビジネス・コラム』 講談社出版サービスセンター、2006年ISBN 4876017352
  7. ^ 永井隆 「第1章 消費者が飲みたいビールが日本にはなかった」『ビール15年戦争 すべてはドライから始まった』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年8月1日、第1刷、36ページ。ISBN 4-532-19139-4
    コードネームの「FX」は、永井隆『ビール15年戦争 すべてはドライから始まった』36ページによると当時の日本における次期支援戦闘機FSX」が由来となっている。
  8. ^ a b 永井隆 「第1章 消費者が飲みたいビールが日本にはなかった」『ビール15年戦争 すべてはドライから始まった』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年8月1日、第1刷、44から47ページ。ISBN 4-532-19139-4
  9. ^ レファレンス事例集 / 日経流通新聞(日経MJ)に毎年年末にヒット商品番付が掲載されますが、第1回〜19回(1971年〜1989年)の掲載月日とページを教えてください。 - 国立国会図書館 2010年4月22日
    企業好意度とコーポレートイメージ (PDF) - 日経リサーチ
  10. ^ a b アサヒビール参入で発泡酒戦線さらに熱く - 日経BPネット 2001年2月28日
  11. ^ アサヒビールグループの概要と事業方針 (PDF) - アサヒビール 2008年10月
    衝撃的シェア逆転から失地回復 - 日経ビジネスオンライン 2007年10月12日
  12. ^ 宮本紘太郎 「第4章 発泡酒、アサヒ「本生」の登場」『アサヒビール 成功する企業風土 内側からみた復活の法則』、2002年9月10日、初版第1刷、188ページ。ISBN 4396611579
    キリンラガーはどうしてYMOを起用? All About 2007年8月13日
  13. ^ a b keiko inada「BIG4の底力 このビールに自信あり!」、『Beer & Pub』vol.1、プラネットジアース、2005年5月25日、 60ページ、 雑誌コード 02234-06-5。
  14. ^ a b ビール業界「第3」の争い、キリン3年ぶり首位”. YOMIURI ONLINE(読売新聞) (2009年7月11日). 2010年2月6日閲覧。
  15. ^ アサヒ、焼酎を自主回収「さつま司」など65万本 47NEWS 2008年9月11日
  16. ^ 『アサヒ旬果搾り りんご』新発売のお知らせ アサヒビール ニュースリリース 2003年平成15年)7月25日
  17. ^ 芸術・文化支援活動 アサヒビール公式サイト
  18. ^ アサヒビール・シルバースター
  19. ^ 昭和2年操業の西宮工場を閉鎖 アサヒビール、市場縮小で
  20. ^ アサヒ飲料「三ツ矢サイダーALL ZERO」のCMにも出演。
  21. ^ アサヒ飲料「三ツ矢サイダー」のCMにも出演。「六条麦茶」にも出演していた。(現在は安めぐみ
  22. ^ アサヒ飲料「三ツ矢サイダー」のCMにも出演していた。現在は上戸彩
  23. ^ その後、アサヒ飲料「六甲のおいしい水」のCMに出演。

関連項目

外部リンク