アッシュル・ダン3世

古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の王

アッシュル・ダン3世Ashur dan III、在位:紀元前772年 - 紀元前755年[1])は、古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の王である。彼の時代も高官や軍人の勢力が強く、王権は制限されていた。たびたび疫病や反乱が起きたことが記録されている。彼の治世に日食が観測されたことがわかっており、これを基準として新アッシリア帝国時代の各王の治世期間が割り出されている。

アッシュル・ダン3世
アッシリア
在位 紀元前772年 - 紀元前755年

死去 紀元前755年
父親 アダド・ニラリ3世
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来歴 編集

アダド・ニラリ3世の息子として生まれ、兄王シャルマネセル4世の後を継いでアッシリア王となった彼の治世は、アッシリアの王政にとって厳しい時代だった[2][3]。前王時代より引き続いて将軍[4]シャムシ・イルが大きな勢力を振るっており、また宦官の勢力も依然として強力であったため、彼自身の権力はかなり制限されたと考えられる。王権が弱く地方長官の自立傾向が目立った時代であったため、大きな業績は無いが、シリアへの遠征や反乱の鎮圧の記録が残っている。

リンムの年誌によれば、紀元前765年、アッシリアを疫病が襲った。このため、翌年の記録では「王は国に留まる」と記述され軍事遠征は行われなかった。通例、アッシリア王は毎年のように遠征を行っており、この言葉は記録の残る紀元前858年から紀元前699年までの間で15回しか使われていない[5]。紀元前763年にリッビ・アリで反乱が起こり、さらにアラプハグザナでも反乱が起き、紀元前759年まで混乱が続いた。紀元前759年にはもう一度疫病が起きた[6][7]。紀元前758年にグザナへの遠征が行われてようやく平和が回復され、その後、2年連続で「王は国に留まる」と記述されている[5]。国力もしくは王個人の疲弊が窺われる。

彼の死後、弟のアッシュル・ニラリ5世が王位を継いだ。

日食と新アッシリア時代の編年 編集

アッシリアでは毎年リンムと呼ばれる役職に1人の人間が選出され、毎年の記録はその年のリンム職にあった人間の名前で記録された(詳細はアッシリアを参照)。アッシュル・ダン3世の治世中のリンム、ブル・サギレ(Bur-Saggile, グザナの総督)の年の3月(シマヌ)に日食が起こったことが記録されている[5]。この日食が天文学的に紀元前763年6月15日に発生したことが割り出せるため、この年がアッシリア年代学の基点となっている[8]。このため、アッシュル・ダン3世の治世と連結可能な記録が残っていれば、非常に正確な編年を割り出すことが可能である。たとえば、新アッシリア時代の各王の治世年などは、この年を基点にして統治年数を加算、減算することで割り出されている。

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ Boardman, John (1982). The Cambridge Ancient History Vol. III Part I: The Prehistory of the Balkans, the Middle East and the Aegean World, Tenth to Eighth Centuries BC. Cambridge University Press. p. 276. ISBN 978-0521224963. https://books.google.com/books?id=vXljf8JqmkoC&pg=PA276 2013年10月19日閲覧。 
    (『ケンブリッジ古代史 第3巻第1部』(編:ジョン・ボードマン、イオルワース・エイドン・ステファン・エドワーズほか、1982年、ケンブリッジ大学出版)p.276に収録されている『バルカン半島、中東とエーゲ海の先史時代 紀元前10~8世紀』)
  2. ^ Rowton, M.B. (1970). The Cambridge Ancient History. 1.1. Cambridge University Press. pp. 202–204. ISBN 0521070511.
    (『ケンブリッジ古代史 第1巻第1部』(編:イオルワース・エイドン・ステファン・エドワーズ、C・J・ガッド」ほか、1970年、ケンブリッジ大学出版)p.202-204に収録されている『年代記』(著:ロートン・M・B))
  3. ^ Ashur-Dan III Archived 2019-02-13 at the Wayback Machine..
    (『アッシュル・ダン3世』(ウェブサイト『古代メソポタミア』)中の記事)
  4. ^ タルタン。「総司令」または「首相」に相当する語。アッシリア軍の本来の総司令は王なのでナンバーツーに相当する地位だが、このときのように役職者の威信が高くなりすぎると王権が圧迫される場合もあった。
  5. ^ a b c Limmu List (858-699 BCE)”. Livius.org (2020年9月24日). 2020年10月18日閲覧。
    (リンム一覧(紀元前858~669年)(オランダの歴史学者ヨナ・レンダリングが開設するサイト「Livius.org」より))
  6. ^ Budge, Annals Of The Kings Of Assyria (Routledge, 2013) p154.
    (『アッシリア王たちの年代記』(著:ウォーリス・バッジ、2013年、ラウトリッジ出版(英国))p.154より)
  7. ^ E. A. Wallis Budge, Annals Of The Kings Of Assyria: The Cuneiform Texts With Translations, Transliterations From The Original Documents (Routledge, 30 Apr. 2007) p94.
    (『アッシリア王たちの年代記:楔形文字文書の翻訳文と、オリジナルの楔形文字文書』((著:ウォーリス・バッジ、2007年、ラウトリッジ出版(英国))p.94より)
  8. ^ Rawlinson, Henry Creswicke, "The Assyrian Canon Verified by the Record of a Solar Eclipse, B.C. 763", The Athenaeum: Journal of Literature, Science and the Fine Arts, nr. 2064, 660-661 [18 May 1867].
    (『紀元前763年の日食の記録によって確かめられたアッシリアの奉献文』(著:ヘンリー・ローリンソン、1867年、雑誌『アテナイオン』p.660-661に収録))
先代
シャルマネセル4世
新アッシリア王
前772年 - 前755年
次代
アッシュル・ニラリ5世