アデライード・ド・ブルゴーニュ (ブラバント公妃)

アデライード・ド・ブルゴーニュフランス語:Adélaïde de Bourgogne, 1233年ごろ - 1273年10月23日)は、ブルゴーニュ公ユーグ4世とその最初の妃ヨランド・ド・ドルーの娘[1]。名はアリスアリックスとも。1251年にブラバント公アンリ3世と結婚し、夫の死後はブラバント公領の摂政をつとめた。

アデライード・ド・ブルゴーニュ
Adélaïde de Bourgogne
馬に乗るアデライード(1260年)

出生 1233年ごろ
死去 1273年10月23日
配偶者 ブラバント公アンリ3世
子女 アンリ4世
ジャン1世
ゴドフロワ
マリー
家名 ブルゴーニュ家
父親 ブルゴーニュ公ユーグ4世
母親 ヨランド・ド・ドルー
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アデライード、アンリ3世と子供たち
摂政アデライードとゲルデルン公との和解

生涯 編集

結婚 編集

父ユーグ4世は二度の結婚により10人の子供がいた。1251年、アデライードは1251年にブラバント公アンリ3世と結婚し[2]、以下の子女が生まれた。

摂政 編集

1261年に夫アンリ3世が死去し、アデライードは未成年の息子アンリ4世の摂政となったとみられる。アデライードが摂政になることを夫の従兄弟ヘンドリック・ファン・ルーヴェン=ガースベーク(nl)が反対したため、初めは全ての貴族には受け入れられなかった。それにもかかわらず、1268年に息子ジャン1世が成年に達するまでアデライードは摂政にとどまった。

長男アンリ4世は心身に障害があり、満足に公領を統治することができなかった。結果として、アンリ4世は公位から降ろされ、代わって次男ジャン1世が公位についた。アンリ4世はディジョンのサン=ベニニュ修道院に向かった。

アデライードは1262年にカルティエ・デュ・ヴァル・デュシャンヌ女子修道院を創建した。この修道院は低地地方で初めてのドミニコ会修道院である。

1268年にアデライードは統治をジャン1世に譲り、その5年後に40歳位で死去した。

脚注 編集

  1. ^ Commire 1999, p. 77.
  2. ^ Previtê 1960, p. 1034.
  3. ^ a b c d Dunbabin 2011, p. xiv.

参考文献 編集

  • Commire, Anne (1999). Women in World History: Aak-Azz. Yorkin Publications 
  • Dunbabin, Jean (2011). The French in the Kingdom of Sicily, 1266–1305. Cambridge University Press 
  • Previtê, C.W. (1960). The Shorter Cambridge Medieval History. II. Cambridge at the University Press