アドルフ・ダニエル・エドワード・エルマー

アメリカの植物学者

アドルフ・ダニエル・エドワード・エルマー(Adolph Daniel Edward Elmer; 1870年6月14日-1942年)はアメリカ合衆国植物学者植物収集家である[1]。主にフィリピンで活動し、彼が同地で採取した植物は自他問わず数多くの新種として記載が行われたが、旧日本軍フィリピンへ侵攻した際に民間人用の収容所へ入れられ、そこで命を落とした。

画像外部リンク
https://gpi.myspecies.info/sites/gpi.myspecies.info/files/imagecache/preview/images/Elmer,%20A.D.E..jpg
Adolph Daniel Edward Elmer
アドルフ・ダニエル・エドワード・エルマー
肖像写真は van Steenis-Kruseman (1950) を参照
生誕 1870年6月4日
アメリカ合衆国ウィスコンシン州ヴァン・ダイン
死没 1942年4月17日あるいは7月(享年71または72)
フィリピンマニラサント・トーマス収容所
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
研究分野 植物学
出身校 ワシントン州立大学
スタンフォード大学
命名者名略表記
(植物学)
Elmer
プロジェクト:人物伝
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生涯と業績 編集

エルマーは1870年6月14日にアメリカ合衆国のウィスコンシン州ヴァン・ダインVan Dyne)で[2][1]父ジェイコブ・ヴァン・ダイン(Jacob Van Dyne)と母アルヴィナ・エルマー(Alvina Elmer)のもとに生まれた[2]。1899年にワシントン州立大学を卒業し、1903年[3](あるいは1904年)にはスタンフォード大学修士号英語版を得た[4]。1896年から修士号を得るまでの間はアメリカ合衆国西部(特にカリフォルニア州)で数多くの植物を採取していた[5][注 1]が、やがて植物の新種記載も行い始め、雑誌 Botanical Gazette の若い巻号に彼の名が見える[3](例: 1903年の第36巻におけるイネ科Festuca idahoensis など[7])。エルマーは1904年以降には当時米国の占領下にあったフィリピンマニラへと赴いたが、最終的に亡くなるまで同地に定住することとなった[4]。1904年から1927年にかけてフィリピンで大規模な植物採取活動を行い、ボルネオ島でも同様の活動を行った[1]。イギリスの生物学者アルバート・ウィリアム・クリスチャン・セオドア・ヘレAlbert William Christian Theodore Herre)によると、米国の植物学者エルマー・ドリュー・メリルはアドルフ・ダニエル・エドワード・エルマーのことを第二次世界大戦が開戦するまでフィリピンや東南アジアで働いた植物収集家としては最も優れた人物であると考えており、その証明となるのが Merrill (1929) である[3]。エルマーは1906年から1939年にかけて刊行された雑誌 Leaflets of Philippine Botany の編集者でもあり、その中で多くの植物(1500を超える分類群[5])の記載を行った[1]

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アドルフ・ダニエル・エドワード・エルマーは妻エマ・オスターマン・エルマーEmma Osterman Elmerネブラスカ州アーリントンArlington)出身、1902年に彼と結婚[2]; 1867-1956)と長年フィリピンで暮らしており、ある時帰国の準備をしていたが、その矢先に真珠湾攻撃(1941年)が起こり[8]、結局同地に留まりそのまま旧日本軍による侵攻に巻き込まれることとなった。エルマーは侵攻開始から1年にも満たない1942年の4月17日[1][3]マニラサント・トーマス収容所[注 2][4]亡くなった。ただしヘレが同収容所から解放された友人から伝え聞いた話によると、彼が亡くなったのは同年7月のことであったとされる[4]。死因は自然死であった[5]フィリピン国立植物標本館には彼の非公開の模式標本も所蔵されていたが、旧日本軍による侵攻の際に失われた[5]。エマも抑留されていたものの生き延びた[8]

遺産 編集

以下の例のように、エルマーが採取した標本を模式標本(タイプ)として記載された種がいくつも存在する。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 1901年に発行されたキュー植物園の機関紙 Bulletin of Miscellaneous Information の植物収集家一覧においても、エルマーはワシントン準州で採取活動を行った者としてその名を連ねている[6]
  2. ^ : Santo Tomas Internment Camp旧日本軍フィリピンに侵攻し占領する際に聖トマス大学(サント・トーマス大学)に設けられ[9]イギリス人アメリカ人[10]民間人が[11][12]敵国人として収容された[10]。サント・トーマス収容所に1941年1月以降家族や親族と共に収容され、後にシンガポールインドネシアなど他の国で抑留された者たちと共に日本国を被告として裁判を起こしたギルバート・マーティン・ヘア(1941年マニラ生)によると、この収容所で「民間抑留者は、頭にしらみがつき、至る所に南京虫がいる劣悪な環境に置かれ」、「民間抑留者の多くは、栄養失調、疾病あるいは看守による虐待が原因で死亡した」という[13]
  3. ^ クリストフ・フリードリヒ・オットーChristoph Friedrich Otto)およびアルベルト・ゴットフリート・ディートリヒAlbert Gottfried Dietrich)。

出典 編集

  1. ^ a b c d e van Steenis-Kruseman (1950).
  2. ^ a b c Copeland (1949:1).
  3. ^ a b c d e Thomas (1961).
  4. ^ a b c d Herre (1945).
  5. ^ a b c d Natural History Museum (BM). “Elmer, Adolph Daniel Edward (1870-1942) on JSTOR”. 2021年5月19日閲覧。
  6. ^ “A list of the collectors whose plants are in the herbarium of the Royal Botanic Gardens, Kew, to 31st December, 1899”. Bulletin of Miscellaneous Information 1901: 21. (1901). https://www.biodiversitylibrary.org/page/11627418. 
  7. ^ Elmer, A. D. E. (1903). “New Western plants. I”. Botanical Gazette 36: 53. https://www.biodiversitylibrary.org/page/29401084. 
  8. ^ a b “Arlington News”. The Enterprise 48 (2): p. 7. (1944年1月13日). https://www.newspapers.com/image/671127310/ 2021年5月19日閲覧. "Word was received indirectly through other relatives, that Mrs. Emma Osterman Elmer, at one time a resident of Arlington, is alive and seemingly well in the Philippines. It has been over a year since last hearing from her, and it was feared she was dead. Mrs. Elmer and her husband, a professor in the University of the Philippines for many years, planning to return shortly before Pearl Harbor. Later, Professor Elmer died in a concentration camp, and since that, no word had been received. Mrs. Elmer wrote that she was living in an apartment, but was under close watch at all times, she had good food and kind treatment.〈ほかの親類を通じ間接的な形で、一時期アーリントンの住民であったエマ・オスターマン・エルマー女史がご存命で、フィリピンにおいてご健在である様子との知らせが届いた。最後に女史からの連絡があったのは1年以上も前のことであり、お亡くなりになっていることも危ぶまれていた。エルマー女史とフィリピンの大学の教授である夫は長年フィリピンにお住まいであり、真珠湾攻撃の直前には帰国の計画をされていた。後にエルマー教授は強制収容所でお亡くなりになり、それ以来何の知らせも届いていなかった。エルマー女史は1室に暮らしているものの常時きっちりと監視下に置かれている、良い食事をもらって親切な扱いを受けている、と記されている。〉" 
  9. ^ 日本のフィリピン占領期に関する史料調査フォーラム 編 編『日本のフィリピン占領: インタビュー記録』龍溪書舎、1994年、387頁。ISBN 978-4-8447-8370-1, 4-8447-8370-Xhttps://books.google.co.jp/books?id=DidMAQAAIAAJ&newbks=1&newbks_redir=0&printsec=frontcover&dq=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80&q=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80&hl=ja&redir_esc=y 
  10. ^ a b 池端雪浦 編 編『日本占領下のフィリピン』岩波書店、1996年、355頁。ISBN 4-00-001729-2https://books.google.co.jp/books?id=8YiwAAAAIAAJ&newbks=1&newbks_redir=0&printsec=frontcover&dq=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80&q=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80&hl=ja&redir_esc=y 
  11. ^ 金ケ江, 清太郎『歩いてきた道―ヒリッピン物語―』国政社、1968年、536頁https://books.google.co.jp/books?id=ENUdAQAAMAAJ&newbks=1&newbks_redir=0&printsec=frontcover&dq=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80&q=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80&hl=ja&redir_esc=y 
  12. ^ 増田, 弘『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』中公新書、2009年、283頁https://books.google.co.jp/books?id=RC40AQAAIAAJ&newbks=1&newbks_redir=0&printsec=frontcover&dq=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80&q=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80&hl=ja&redir_esc=y 
  13. ^ 東京地方裁判所 平成7年(ワ)1382号 判決”. 大判例. 2021年5月20日閲覧。
  14. ^ Fernald, M. L. (1898). “Notes upon Some Northwestern Castilleias of the Parviflora Group”. Erythea: A Journal of Botany, West American and General 6: 51. https://www.biodiversitylibrary.org/page/6094158. 
  15. ^ Ames, Oakes (1912). “Orchidaceae novae et criticae Insularum Philippinarum”. Leaflets of Philippine Botany 5: 1552. https://www.biodiversitylibrary.org/page/773843. 
  16. ^ Elmer, A. D. E. (1915). “Two Hundred Twenty Six New Species―I”. Leaflets of Philippine Botany 7: 2556f. https://www.biodiversitylibrary.org/page/779972. 
  17. ^ Merrill, E. D. (1918). “New or noteworthy Philippine plants, XIII”. The Philippine Journal of Science, Section C. Botany 13 (1): 39. https://www.biodiversitylibrary.org/page/51234442. 
  18. ^ Merrill (1929:98).

参考文献 編集

英語:

関連文献 編集

英語:

  • Sayre, G. (1975). “Cryptogamae Exsiccatae: an annotated bibliography of exsiccatae of algae, lichens, hepaticae, and musci. V. Unpublished Exsiccatae: I. Collectors”. Memoirs of the New York Botanical Garden 19 (3): 317. 

外部リンク 編集