アファナシー・ベロボロドフ

アファナシー・パヴランティエヴィチ・ベロボロドフАфанасий Павлантьевич Белобородов1903年1月18日 - 1990年9月1日)は、ソ連の軍人。上級大将。ソ連邦英雄(2度)。

経歴 編集

イルクーツク州アニキノ村出身。1919年から赤軍。ニジェゴロド歩兵学校(1926年)、軍事政治課程(1929年)、M.V.フルンゼ名称軍事アカデミー(1936年)を卒業。

ロシア内戦時は、極東で戦う。1926年から狙撃小隊長。1929年から狙撃中隊政治委員。中ソ紛争時、戦死した中隊長に代わり部隊の指揮を取った。アカデミー卒業後、極東の狙撃師団参謀長補、作戦班長。1939年3月から狙撃軍団参謀部作戦課長、6月から参謀長。1941年1月~6月、極東戦線参謀部の戦闘訓練課長。

独ソ戦時、1941年7月から第78狙撃師団長となり、同年10月に西部戦線に到着した。モスクワの戦いでの戦功により、同年11月、師団は第9親衛師団に改編された。1942年、同師団は北ドネツの南西戦線で戦った。1942年10月から第5親衛狙撃軍団長となり、カリーニン戦線のヴェリーキエ・ルーキー作戦に参加。1943年8月から第2親衛狙撃軍団長となり、ドゥホフシチーナヴィテブスク北方で作戦を行った。

1944年5月から第1沿バルト戦線の第43軍司令官となり、ヴィテブスク・オルシャ作戦においてドヴィナ川を渡河し、隣の第39軍と共にドイツ軍5個師団を包囲・撃滅した。この功績に対して、ソ連邦英雄の称号が授与された。1945年、第43軍は第3白ロシア戦線の指揮下に入り、インステルブルクケーニヒスベルク、ザムラント作戦に参加した。ケーニヒスベルク奪取に対して、2つ目のソ連邦英雄称号が授与された。

1945年6月から極東に移り、同年8月にソ連が対日参戦すると第1極東戦線第1軍を指揮し、関東軍の撃破に参加した。

1946年4月から狙撃兵戦闘訓練局長、同年12月から中央軍集団副総司令官。1947年~1953年、第39軍司令官。1953年~1954年、「狙撃」課程長。

1954年5月からチェコスロバキア共和国国防相主任軍事顧問。1955年10月からヴォロネジ軍管区司令官。1957年からソ連国防省人事総局長。1963年、上級大将。同年3月からモスクワ軍管区司令官。1968年から国防省監察総監。

第3期、第7期ソ連最高会議代議員。

ソ連邦英雄(2度)。レーニン勲章5個、十月革命勲章、赤旗勲章5個、一等及び二等スヴォーロフ勲章、二等クトゥーゾフ勲章、一等祖国戦争勲章、三等「ソ連軍における祖国への奉仕に対する」勲章を受章。