アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィル

アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィル(Abu Abd Allah Muhammad al-Mustansir ibn Yahya、? - 1277年)は、チュニスを中心とする地域を支配したハフス朝の第2代君主(在位:1249年 - 1277年)。

アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィル
أبو عبد الله محمد المستنصر
ハフス朝アミール
アル=ムスタンスィルの在位中に鋳造された貨幣
在位 1249年 - 1277年

死去 1277年
子女 ヤフヤー2世アル・ワーシク
王朝 ハフス朝
父親 アブー・ザカリーヤー1世
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略歴 編集

初代君主アブー・ザカリーヤー1世の子。1249年に父が死去したため、跡を継いだ。1253年にアミール・アル=ムウミニーンの称号を名乗り、1258年アッバース朝モンゴル帝国に滅ぼされると、翌1259年にはメッカシャリーフ1260年にはマムルーク朝からカリフの地位を承認された[1]。しかし、1261年にマムルーク朝のバイバルスがアッバース家の生き残りであるムスタンスィル2世をカリフとして擁立すると、東方地域においてのカリフとしての地位は失われる[1]。マムルーク朝の公文書にアル=ムスタンスィルのカリフの地位を認めるものは無く、アル=カルカシャンディー英語版イブン・タグリービルディー英語版ら14世紀末以降のマムルーク朝の知識人も彼のカリフの地位に否定的な見解を示した[2]

1270年に首都チュニスフランスルイ9世率いる第8回十字軍の攻撃を受けたが撃退した。ルイ9世の弟であるアンジュー=シチリア家シャルル1世(シャルル・ダンジュー)はハフス朝との国交の回復を望んでおり、ハフス朝と十字軍の間に和平が成立した[3]。その後、地中海貿易で多くの利益を得たハフス朝は最初の黄金時代を迎える[3]イベリア半島イタリア半島の国家はハフス朝に修好を求めた[3]

1277年に死去。アル=ムスタンスィルの死後、ハフス朝では内紛が相次いで急速に衰退する。

脚注 編集

  1. ^ a b フルベク「マグレブにおける政治的統一の崩壊」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、128頁
  2. ^ 大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)、151頁
  3. ^ a b c フルベク「マグレブにおける政治的統一の崩壊」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、129頁

参考文献 編集

  • I.フルベク「マグレブにおける政治的統一の崩壊」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻収録(D.T.ニアヌ編, 同朋舎出版, 1992年3月)
先代
アブー・ザカリーヤー1世
ハフス朝
1249年 - 1277年
次代
ヤフヤー2世アル=ワーシク