アラトナダラ

モンゴル帝国の皇族

アラトナダラモンゴル語: Aratnadara中国語: 阿剌忒納答剌、? - 至順2年1月15日1331年2月22日))は、大元ウルスの皇族で、文宗トク・テムルの息子。皇太子に任ぜられていたが、父に先立って早世したため、皇帝(カアン)位を継ぐことはなかった。

元史』などの漢文史料では阿剌忒納答剌(ālàtènàdālà)と記される。

概要 編集

トク・テムルの息子として生まれ、弟にはエル・テグスタイピンヌらがいた。

天暦元年(1328年)、父のトク・テムルが「天暦の内乱」を制してジャヤガトゥ・カアンとして即位した頃からアラトナダラは史料上に現れ始める。同年にはトク・テムルが即位以前に自らのオルドで召し抱えていた工匠150人をアラトナダラに与えたことが記録されている[1]

至順元年(1330年)2月、皇后ブダシリとともに仏戒を受け、3月にはかつて世祖クビライの皇太子チンキムの王号であった「燕王」位を与えられた。同時に秩正2品の宮相府が創設されたが、これはトク・テムルを傀儡とする実力者エル・テムルが統領するものとされた[2]

同年8月には世祖の誕生を祝って首都の大都で仏事が7日間にわたって行われたが、この時御史台の臣下はアラトナダラを皇太子とするようトク・テムルに請うた。しかし、トク・テムルは「朕の子は未だ幼く、かつてチンキムが燕王とされた年齢に及んでいない。エル・テムルが来るを待って、協議することにしよう」と答え、アラトナダラの皇太子就任を認めなかった。また、同年10月に諸王・大臣が再びアラトナダラを皇太子にするよう請うた時も、同様にアラトナダラが未だ幼いことを理由にこれを認めなかった[3]

しかし、同年12月にトク・テムルは方針を転換してアラトナダラを皇太子にすることを決定し、12月2日(新暦1月18日)に宗廟に告祭し、3日後の12月5日(新暦1月21日)には詔として正式に天下に知らしめた。更にその3日後には、監察御史がかつてクビライがチンキムに姚燧ら老臣を補佐として与えたように、アラトナダラに補佐をつけるよう進言し、トク・テムルはその進言に従った[4]

しかし、アラトナダラは皇太子に冊立されてから1カ月後、至順2年1月15日(新暦1331年2月22日)に亡くなった[5]。このため、次弟のエル・テグスが次に皇太子とされたが、メルキト部のバヤンの策謀によって明宗コシラの諸子(リンチンバルトゴン・テムル)が帝位に即くこととなり、トク・テムルの諸子が帝位に即くことはなかった。

『元史』巻107表2宗室世系表には弟のエル・テグス、タイピンヌとともに子孫がいなかったと記されており[6]、トク・テムルの家系は早くに断絶してしまった。

懐王トク・テムル家 編集

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[天暦元年十二月]戊申、以潜邸所用工匠百五十人付皇子阿剌忒納答剌、立異様局以司之、秩従六品」
  2. ^ 『元史』巻34文宗本紀3,「[至順元年二月]丁酉、帝及皇后・燕王阿剌忒納答剌並受仏戒。三月……戊午、封皇子阿剌忒納答剌為燕王、立宮相府総其府事、秩正二品、燕鉄木児領之」
  3. ^ 『元史』巻34文宗本紀3,「[至順元年八月]辛酉、以世祖是月生、命京師率僧百七十人作仏事七日。御史台臣請立燕王為皇太子、帝曰『朕子尚幼、非裕宗為燕王時比、俟燕帖木児至、共議之』……[至順元年冬十月]壬子、諸王・大臣復請立燕王為皇太子、帝曰『卿等所言誠是。但燕王尚幼、恐其識慮未弘、不克負荷、徐議之未晩也』」
  4. ^ 『元史』巻34文宗本紀3,「[至順元年]十二月戊申、遣伯顔等以将立燕王阿剌忒納答剌為皇太子、告祭於郊・廟。……辛亥、立燕王阿剌忒納答剌為皇太子、詔天下。甲寅……監察御史言『昔裕宗由燕邸而正儲位、世祖択耆旧老臣如王顒、姚燧、蕭㪺等為之師・保・賓客。今皇太子仁都聡睿、出自天成、誠宜慎選徳望老成・学行純正者、俾之輔導於左右、以宏養正之功、実宗社生民之福也』。帝嘉納其言」
  5. ^ 『元史』巻35文宗本紀4「[至順二年春正月]辛卯、皇太子阿剌忒納答剌薨」
  6. ^ 『元史』巻107表2宗室世系表,「文宗皇帝、三子長皇太子阿剌忒納答剌、早薨、無後。次二燕帖古思太子、次三太平訥太子、倶早隕、無後」

参考文献 編集

  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 新元史』巻114列伝11
  • 蒙兀児史記』巻77列伝59