艦歴
発注
起工 1944年6月28日
進水 1944年10月1日
就役 1945年1月15日
退役 1968年12月2日
除籍 1968年12月2日
その後 1968年12月2日カナダに売却
性能諸元
排水量 1,870トン(水上)
2,416トン(水中)
全長 311 ft 8 in
全幅 27 ft 4 in
吃水 16 ft 5 in
機関 フェアバンクス=モース
38D 8 1/8ディーゼルエンジン 4基
エリオット・モーター発電機2基
最大速 水上:20.25 ノット (37 km/h)
水中:8.75 ノット (16 km/h)
航続距離 11,000カイリ(10ノット時)
(19 km/h 時に 20,000 km)
試験深度 400ft (120m)
巡航期間 潜航2ノット (4km/h) 時48時間、哨戒活動75日間
乗員 士官6名、兵員60名
兵装 5インチ砲1基、40ミリ機関砲、20ミリ機銃
21インチ魚雷発射管10門

アルゴノート (USS Argonaut, SS-475) は、アメリカ海軍潜水艦テンチ級潜水艦の一隻。艦名はカイダコ科(貝殻の名称ではアオイガイ科)に属するタコの総称に因んで命名された。その名を持つ艦としては2隻目。

カイダコ・アオイガイ(Greater argonaut

艦歴 編集

アルゴノートは1944年6月28日にメイン州キタリーポーツマス海軍造船所で起工した。1944年10月1日にアラン・R・マッカン夫人によって命名、進水し、1945年1月15日に艦長ジョン・S・シュミット少佐(アナポリス1937年組)の指揮下就役する。

アルゴノートはポーツマス海域およびナラガンセット湾で整調を行い、3月27日に整調後信頼性試験のためポーツマスへ帰還した。その後4月14日にフロリダ州キーウェストに向けて出航し、軽飛行機の特別試験と艦隊音響学校での訓練活動に従事する。5月13日にフロリダ沿岸を離れ、パナマ運河を通過してハワイに向かう。真珠湾には6月11日に到着し、アルゴノートは修理および訓練のため2週間を過ごした。

哨戒 編集

6月28日、アルゴノートは最初の哨戒で東シナ海に向かった。サイパン島に寄港するまで潜航訓練を行い[1]、7月6日には病院船高砂丸大阪商船、9,315トン)を発見した[2]。7月10日にサイパン島に寄港し燃料を補給。サイパン島を出航後、台湾海峡、東シナ海および黄海に向かって敵艦の探索を始めた。7月16日に撃墜機のパイロットを救助し、パイロットはクィルバック (USS Quillback, SS-424) に引き渡した。8月7日には北緯34度48分 東経125度48分 / 北緯34.800度 東経125.800度 / 34.800; 125.800の地点にある SHICHIHATSU TO [3]に対して艦砲射撃を行った[4]

アルゴノートの唯一の船舶に対する戦闘は8月12日に行われた。北緯34度22分 東経125度35分 / 北緯34.367度 東経125.583度 / 34.367; 125.583の地点において40ミリ機関砲および20ミリ機銃による砲撃で、25トンのジャンクを撃沈した[5]。8月15日、日本は降伏。その6日後の8月21日、アルゴノートは52日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投。8月12日の戦闘は第二次世界大戦におけるアルゴノートの唯一の戦果となった。

戦後 編集

アルゴノートは9月1日にグアムを出航し、真珠湾とパナマ運河を経由してニューヨーク州トンプキンズビル英語版に向かった。10月4日にニューヨークに到着し、続いてオーバーホールのためメイン州キタリーに向かう。1946年初めにアルゴノートはパナマを拠点とする大西洋艦隊に配属される。パナマに向かう途中、アルゴノートは軽巡洋艦ホノルル (USS Honolulu, CL-48) とニューヨークとフィラデルフィア間の東海岸沖で濃霧の中衝突事故を起こす。両艦の損傷は軽微で、アルゴノートはそのままパナマに向かった。1946年後半にアルゴノートはコネチカット州ニューロンドンを拠点とする第2潜水戦隊に配属された。

1952年7月、アルゴノートはフィラデルフィア海軍造船所改修が行われた。この改修によってシュノーケルおよび流線型の司令塔が装備された。これらの変更によりアルゴノートは水中における耐久性が向上することとなった。アルゴノートは1955年7月までニューロンドンを拠点として活動し、その後バージニア州ノーフォークの第6潜水戦隊に配属された。アルゴノートはレギュラスミサイルが装備され、巡航ミサイル潜水艦に改修された。

1958年、アルゴノートは母港をプエルトリコサンフアンに変更する。同地で1年間を過ごし、ミサイル戦略活動に従事した。1959年にノーフォークに帰還し、1960年初めにオーバーホールを行い、そのときにミサイル発射装置は取り外された。改修が完了すると、アルゴノートは定時任務を再開し、対潜水艦戦訓練の支援をノーフォーク沖で行った。

1962年10月15日、アルゴノートは海軍のキューバ封鎖に参加した。その後ノーフォーク海軍造船所で定期オーバーホールが行われる。作業が1963年5月13日に完了し、アルゴノートはニューロンドン海域で回復訓練を行う。バージニア岬英語版海域での訓練の後、8月19日に地中海に向けて出航、第6艦隊との任務に就く。アルゴノートはジブラルタルクレタ島ソウダ湾英語版ギリシャロドス島トルコイズミルフランストゥーロンマルセイユイタリアサンレモナポリを訪問した。その後12月15日に母港に帰還した。

アルゴノートは東海岸での定時任務を継続し、定期的に地中海の配備に就いた。1965年12月1日にノーフォーク海軍造船所でのオーバーホールに入る。作業が完了すると1966年6月10日に出航し公試を行う。その後ニューロンドンに向かい回復訓練を行った。アルゴノートは1966年の残りをニューロンドンの潜水艦学校での任務に費やした。

アルゴノートは1967年の初めにノーフォークへ移動したが、1月9日にバージニア岬海域を離れサンフアンに向かった。1月の残りと2月の大半はスプリングボード作戦に参加し、2月23日にカリブ海を離れ、5日後にノーフォークに到着した。続く2ヶ月間、アルゴノートは北大西洋および地中海巡航の準備を行う。5月26日に出航し、ノルウェートロンヘイムを訪問した。その後ドイツクックスハーフェンスコットランドリース (スコットランド)英語版スペインロタ、イタリアのナポリ、マルタ島バレッタを訪問し、9月20日に母港に帰還した。その後は年末まで沿岸での活動に従事した。

1968年2月6日にニューロンドンに到着したアルゴノートは、2月9日に入渠、2月26日まで留まった。2月27日に出航しノーフォークに帰還する。3月半ばにフロリダ州ジャクソンビルの作戦海域で哨戒を行い、3月22日にポートエバーグレーズ英語版に寄港した。3日後、母港に向けての帰路に就く。3月29日にノーフォークに到着し、沿岸活動を開始した。10月に再びポートエバーグレーズに巡航し、同月ノーフォークに帰還、不活性化の準備に入る。アルゴノートは12月2日に退役し、同日除籍された。アルゴノートは同日カナダに売却され、カナダ海軍ではレインボー (HMCS Rainbow, SS-75) の艦名で就役した。レインボーは1974年12月31日に退役した。

アルゴノートは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。

脚注 編集

  1. ^ 「SS-166, USS ARGONAUT」p.90
  2. ^ 「SS-166, USS ARGONAUT」p.91
  3. ^ 朝鮮半島南西部の新安郡にある島嶼の一つ
  4. ^ 「SS-166, USS ARGONAUT」p.116
  5. ^ 「SS-166, USS ARGONAUT」p.123

参考文献 編集

  • SS-166, USS ARGONAUT(issuuベータ版。83ページより当該艦)
  • Clay Blair,Jr. "Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan" Lippincott、1975年、ISBN 0-397-00753-1
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』私家版、2004年

外部リンク 編集