アレクサンデル5世 (対立教皇)

アレクサンデル5世(Alexander V, 1339年 - 1410年5月3日、在位:1409年 - 1410年)は教会大分裂の時期の教皇の1人。ピサ教会会議で教皇に選出されるが、正式な選出とはみなされず、カトリック教会では対立教皇とされている。但し、1492年に教皇に選出されたロドリゴ・ボルジアはアレクサンデルを名乗ったが、彼はアレクサンデル6世となっている。

アレクサンデル5世
対立教皇
教皇就任 1409年6月26日
教皇離任 1410年5月3日
先代 グレゴリウス12世(ローマ)
ベネディクトゥス13世(アヴィニョン)
次代 ヨハネス23世
個人情報
出生 1339年
 ヴェネツィア共和国クレタ島ネアポリ
死去 1410年5月3日
教皇領ボローニャ
その他のアレクサンデル
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クレタ島生まれのギリシャ人で本名はピーター・フィランジェ・デ=カンディア(Peter Philarges de Candia) 、イタリアではピエトロ・フィラルゴ(Pietro Filargo)と呼ばれていた。

生涯 編集

浮浪児だったとされるがフランシスコ会修道士に拾われ、1357年頃にクレタ島のフランシスコ会修道士になり、パドヴァ大学オックスフォード大学パリ大学で学んだ後、パリ大学で神学を教えた。1386年からパドヴァ大学神学教授になり、パトロンとなったミラノジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの計らいで出世して1386年にピアチェンツァ司教1388年ヴィチェンツァ司教、1389年ノヴァーラ司教になり、1402年にはミラノ大司教1405年にはローマ教皇インノケンティウス7世により枢機卿と教皇特使になっている[1][2][3]

当時の教会大分裂という事態収拾の為、1409年にピサ教会会議が開催されるが、2人の教皇(グレゴリウス12世ベネディクトゥス13世)が廃位された後、全会一致で新たに教皇に選出される。しかし、2人の教皇は納得せず、3人の教皇が鼎立する事態になった。アレクサンデル5世がピサ教会会議で選出された背景として、ギリシャ正教会と合一への期待があったというが、アレクサンデル5世は友人贔屓が酷く枢機卿達を失望させた。とはいえボヘミアヴァーツラフ4世ハンガリージギスムント兄弟とイングランドフランスがアレクサンデル5世を支持していた[1][2][3][4]

ローマはグレゴリウス12世派のナポリラディズラーオが占領していたが、アレクサンデル5世はラディズラーオを破門ルイ2世・ダンジューを新たなナポリ王として支持、ラディズラーオはローマから退去したが、教皇選出の翌年の1410年、ボローニャで逝去。バルダッサレ・コッサ(後継者のヨハネス23世)に毒殺されたとも噂された[1][2][5]

脚注 編集

  1. ^ a b c 新カトリック大事典編纂委員会、P239。
  2. ^ a b c スチュアート、P183。
  3. ^ a b バンソン、P132。
  4. ^ 瀬原、P227 - P228、P241。
  5. ^ バンソン、P132 - P133、瀬原、P242 - P243。

参考文献 編集

  • 学校法人 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典 第1巻』研究社、1996年。
  • P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。
  • マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。
  • 瀬原義生『ドイツ中世後期の歴史像』文理閣、2011年。