アレクサンドル・グレボヴィチ (スモレンスク公)

アレクサンドル・グレボヴィチロシア語: Александр Глебович、? - 1313年)は、スモレンスク公グレプの子である。ムスチスラヴリ公1278年 - 1281年、スモレンスク大公:1281/97年 - 1313年。

アレクサンドル・グレボヴィチ
Александр Глебович
ムスチスラヴリ公
スモレンスク公
アレクサンドル・グレボヴィチの死
在位 ムスチスラヴリ公1278年 - 1281年
スモレンスク公1281/97年 - 1313年

死去 1313年
子女 ヴァシリー
イヴァン
ソロモニダ(エレナ)
家名 リューリク家
父親 スモレンスク公グレプ
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生涯 編集

スモレンスク大公だったおじのフョードル(ru)ジョチ・ウルスに滞在していた時期(1281年以降)から、おそらくスモレンスク公国を統治していたと考えられる。しかし1297年にフョードルがジョチ・ウルスから帰還した後もスモレンスク公位を譲ることはなく、スモレンスクの人々の意志によって公位に就いた。フョードルの最初の妻はヤロスラヴリ公ヴァシリー(ru)の娘であり(結婚は1261年以降)、ヤロスラヴリに地盤を固めていたが、1298年にスモレンスクを占拠しようとした試みは失敗に終わった。その翌年にフョードルは死去している。

1300年、アレクサンドルは兄弟のロマンと共にドロゴブージへの遠征を行ったが、いとこにあたるヴャジマ公アンドレイに敗れた。また、1303年にはモスクワ大公ダニールに、兄弟のスヴャトスラフが治めるモジャイスクを占領されている。

ブリャンスク公オレグ(ru)とミハイルの死後、アレクサンドルは息子のヴァシリーブリャンスク公の座に据えた[注 1]。L.ヴォイトヴィチの仮説によれば、ブリャンスク公オレグの娘はスモレンスク公家の人物の一人と結婚しており、このことが、スモレンスク公家に、ブリャンスク公位の請求権を与えるものとなっていたという。

子女 編集

アレクサンドルの子とされるには以下の人物がいる(子と推定される人物を含む)。

注釈 編集

  1. ^ このヴァシリーは、オレグ一門(ru)のアレクサンドル・ロマノヴィチという人物の子であるという説もある。なお上記のオレグとミハイルもオレグ一門の出身である。

参考文献 編集

先代
ミハイル
ムスチスラヴリ公
1278年 - 1281年
次代
ロマン
先代
フョードル
スモレンスク公
1281/97年 - 1313年
次代
イヴァン