アレクサンドル・ラジーシチェフ

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ラジーシチェフロシア語: Алекса́ндр Никола́евич Ради́щев, ラテン文字転写: Aleksandr Nikolayevich Radishchev, 1749年8月31日 - 1802年9月24日)は、ロシア帝国貴族思想家

ラジーシチェフの肖像画(油彩画)

人物・略歴  編集

ロシア帝国ロマノフ朝)時代の貴族で、女帝のエカチェリーナ2世に仕えた。1773年エメリヤン・プガチョフによってプガチョフの乱が起こると、女帝に農奴解放を訴えて多くの著作を発表した。このため女帝に警戒されるようになり、1789年フランス革命が始まると遂には危険な思想家として逮捕され、その著作は発禁となり、シベリアに流刑に処された。シベリアに流されている間も、農奴解放など多くの著書を発表したりしている一方で、地元民に対して教育を施したり、種痘を行ったりして、地元民には慕われたようである。

1796年11月に女帝が死去してパーヴェル1世が即位する。パーヴェル1世は母帝の政策を徹底的に否定し、流罪にされていたラジーシチェフも罪を許されて帝都・サンクトペテルブルクに召還された。しかし、召還されたとはいえ、彼はその思想を変えようとしなかったため、パーヴェルは厳しく監視させている。

1801年3月にパーヴェルが暗殺され、アレクサンドル1世が即位すると事態は急変する。父の政策を否定するアレクサンドルはラジーシチェフを危険な思想家として迫害し、遂には逮捕しようとしたため、追いつめられたラジーシチェフは1802年に服毒自殺を遂げた。54歳没。

主著 編集

1790年、『ペテルブルクからモスクワへの旅』を刊行し、当時のロシア農奴制の実態をいきいきと描いている[1]。これは、ペテルブルクからモスクワへの旅日記のスタイルをとりながらも農民の悲惨な日常と貴族による農民に対する非人間な扱いを克明に記して農奴制告発の主張が込められていた[2]。そのなかには、

農民は、まえの地主のところでは年貢を納めていたが、こんどの地主はそれを賦役にかえてしまった。地主は、仕事を怠けているのをみると、その怠けぶりに応じて、笞、杖、棒絵で打った。(中略) 地主のドラ息子たちは、ひまがあると村や畑をほっつき歩いて、農民の妻や娘をもてあそんだ。彼らの手ごめをまぬがれた女性はひとりもいなかった。

という記述もあった[1]。エカチェリーナ2世は、この本を発禁処分とし、著者に対しては「(反乱を指導した)プガチョフよりもおそろしい」と述べてシベリアへの流刑に処した[2]

影響・逸話 編集

彼の著作はアレクサンドル・プーシキンをはじめ後世のロシアの思想家に多くの影響を与え、1861年アレクサンドル2世による農奴解放令の原因のひとつとなった[注釈 1]。しばしばロシア革命の先駆者としても扱われる。なお、シベリアに流刑に処された際、当時ロシアに漂流していた日本人の大黒屋光太夫と会見したという[要出典]

その大黒屋光太夫の帰国に尽力した博物学者キリル・ラックスマンが1796年1月に日本への学術調査に出発する予定でシベリアに向かったが、トボリスクから100キロ離れたヴァガイ河畔で病死したと聞いたラジーシチェフは、もとの上司ヴォロンツォーフ公爵にあてた書簡で深い哀悼の念を伝えている[3]。彼は偉大な学者であったラックスマンを心から尊敬しており、流刑先のイリムスクで対面できると期待していたのである。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ アレクサンドル2世はイワン・ツルゲーネフの『猟人日記』(1852年)を読んで農奴解放を決心したといわれている。

出典 編集

  1. ^ a b 相田(1975)pp.408-412
  2. ^ a b 土肥(2002)pp.197-200
  3. ^ 桂川甫周『北槎聞略』岩波文庫、1990年、393頁。 

参考文献 編集

  • 相田重夫 著「陽気な貴婦人革命」、大野真弓責任編集 編『世界の歴史8 絶対君主と人民』中央公論社中公文庫〉、1975年2月。 
  • 土肥恒之 著「ロシア帝国の成立」、和田春樹 編『ロシア史』山川出版社〈世界各国史〉、2002年8月。ISBN 978-4-634-41520-1 

関連項目 編集