アンドレイ・アントノヴィチ・グレチコロシア語: Андре́й Анто́нович Гре́чко、ラテン文字転写:Andrei Antonovich Grechko1903年10月4日 - 1976年4月26日)は、ソビエト連邦軍人政治家ソ連邦元帥ブレジネフ政権で国防大臣を務めた。

アンドレイ・グレチコ
Андрей Гречко
生年月日 (1903-10-04) 1903年10月4日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 ドン軍管州ゴロダエフカ村
没年月日 (1976-04-26) 1976年4月26日(72歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ
出身校 騎兵学校
M.V.フルンゼ名称軍事アカデミー
所属政党 ソビエト連邦共産党
称号 レーニン勲章(6個)
赤旗勲章(3個)
一等スヴォーロフ勲章(2個)
一等クトゥーゾフ勲章(2個)
一等ボグダン・フメリニツキー勲章(2個)
二等スヴォーロフ勲章
チェコスロバキア社会主義共和国英雄
配偶者 クラヴディア・グレチコ
子女 1人
サイン

在任期間 1967年4月12日 - 1976年4月26日
閣僚会議議長 アレクセイ・コスイギン

その他の職歴
ソビエト連邦共産党
第24期政治局員

1973年4月27日 - 1976年4月26日
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アンドレイ・アントノヴィチ・グレチコ
Андрей Антонович Гречко
所属組織 赤軍
ソビエト連邦の旗 ソ連地上軍
軍歴 1919年 - 1976年
最終階級 ソ連邦元帥
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経歴 編集

 
閲兵式を前に赤軍幹部と(1972年・一番左がグレチコ)

1903年10月4日ロシア帝国ロストフ州クイブイシェフスキー地区ゴロダエフカ村で、農民の子として生まれる。1919年内戦赤軍に入る。1926年に騎兵学校を卒業し、小隊長・中隊長を歴任した。1928年ソ連共産党に入党する。1936年にM.V.フルンゼ名称軍事アカデミーを卒業する。1938年10月から特別騎兵師団参謀長となり、1939年の西白ロシア(ポーランド)侵攻に参加した。1941年に参謀本部軍事アカデミーを卒業。

第二次世界大戦では、1941年7月から第34騎兵師団長、1942年1月から第5騎兵軍団長、同年3月から南部戦線の作戦軍集団を指揮、4月から第12軍司令官、9月から第47軍司令官、10月から第18軍司令官。第18軍司令官在任時、同軍政治部長であったブレジネフとは戦友であり、その後第4ウクライナ方面軍でもともに戦う。1943年1月から第56軍司令官、同年10月からヴォロネジ戦線(10月20日から第1ウクライナ戦線)副司令官、12月から第1親衛軍司令官を務めた。

終戦後はキエフ軍管区司令官を務める。1953年から1957年までドイツ駐留ソビエト連邦軍総司令官を務めた。この間1955年ソ連邦元帥となる。1957年11月に国防第一次官兼地上軍総司令官、1960年に国防第一次官兼ワルシャワ条約機構軍総司令官を経て、1967年3月に死去したマリノフスキーの後任となる。1973年4月にソ連共産党中央委員会総会でアンドレイ・グロムイコと共に政治局員に選出される。軍幹部の政治局入りは元国防大臣のゲオルギー・ジューコフ元帥以来のことで、ソビエト連邦における軍の台頭として注目された。国防大臣在職中の1976年4月26日に急死した。

パーソナル 編集

1961年から1976年にソ連共産党中央委員会委員(1952年から委員候補)・1973年から1976年にソビエト連邦共産党政治局員・第2期から第9期のソビエト連邦最高会議代議員であった。

称号・勲章 編集

外部リンク 編集

公職
先代
ロディオン・マリノフスキー
  ソビエト連邦国防大臣
第4代:1967年4月12日 - 1976年4月26日
次代
ドミトリー・ウスチノフ
軍職
先代
イワン・コーネフ
  ワルシャワ条約機構統合軍総司令官
1960年7月 - 1967年4月
次代
イワン・ヤクボフスキー
先代
ワシーリー・チュイコフ
  ドイツ駐留ソ連軍総司令官
1953年5月 - 1957年11月
次代
マトヴェイ・ザハロフ