アンリ・ユベールフランス語: Henri Hubert1872年6月23日 - 1927年5月25日)は、フランス考古学者、比較宗教社会学者。ケルト人に関する研究やマルセル・モースやその他デュルケーム学派の構成員との共同研究で知られる。

アンリ・ユベール
人物情報
生誕 (1872-06-23) 1872年6月23日
フランスの旗 フランスパリ
死没 1927年5月25日(1927-05-25)(54歳)
出身校 リセ・ルイ=ル=グラン
学問
研究分野 考古学宗教社会学
研究機関 高等研究実習院
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経歴 編集

ユベールはパリで生まれ育ち、リセ・ルイ=ル=グラン(ルイ大王学院)に入学した。学校の牧師、Abbe Quentinに影響を受け、宗教に関する関心、特にアッシリア人の間の宗教の関心を覚えた。その後高等師範学校に入学し、キリスト教史を研究し始めた。東方正教会東ローマ帝国聖像破壊運動の研究の後、1895年に歴史を研究した。ユベールの博士論文は小アジア紀元前の宗教を対象にするものであった。

ユベールは多くのフランスの学者とは異なり、卒業後に教育よりも研究を重視した。1898年高等研究実習院に在籍し、国立考古学博物館(fr:Musee d'archeologie nationale)にも籍を置いた。当時、ユベールはケルト人歴史文化に関する興味、関心が大きかった。

1898年マルセル・モースと親しい仲となり、エミール・デュルケームの創刊した雑誌『社会学年報』の寄稿者、協力者となり、最終的に社会学年報の「宗教学」部門の責任者となることとなる。その後、ユベールとモースは共同研究を行い、1899年の『供儀』や1904年の『呪術に関する一般理論の概要』を刊行した。

1906年、ユベールは高等研究実習院で研究者となり、以後死まで高等研究実習院に留まることとなる。民族学的手法を用いてヨーロッパの原始社会を教えていたEcole du Louvreにも在籍していた。20年間に渡り、ユベールはアジアとケルトに関する著書を刊行した。

1917年のデュルケムの死はユベールにとって大きく、また1924年の出産の際の妻の死も大きく堪えた。恩師や妻との死別の後、1927年にユベールは亡くなった。

著書 編集

  • 『供犠』 法政大学出版局 版 叢書・ウニベルシタス 119 小関藤一郎 訳 ISBN 978-4-588-00119-2
  • Les Celtes et l'expansion celtique jusqu'à l'époque de La Tène, Albin Michel Paris (1932) réédition (1974), Réedition Jean de Bonnot (2007)
  • "Les Celtes depuis l'époque de la Tène et la civilisation celtique" La renaissance du livre (1932), Réedition Jean de Bonnot (2007)
  • Les Germains: Cours professé à l'école du Louvre en 1924-1925, Albin Michel Paris (1952)

脚注 編集