イボ人

イボ語(イグボ語)を話すアフリカの民族

イボ (より正確にはイグボÌgbo, Ibo)はアフリカ民族黒人系の単一民族としては最大規模のグループの1つである。その人口の大半はナイジェリア東南部に住み、ナイジェリアの総人口の約20%を占める。カメルーン赤道ギニアにも相当数が居住する。彼らの言語はイボ語(イグボ語)である。イボはアナンブラ州アビア州イモ州エボニ州エヌグ州で多数を占める。デルタ州リバーズ州でもそれぞれの55%以上の人口を有する[要出典]。イボの言語や文化の影響はクロスリバー州アクワ・イボン州バイエルサ州などでもみられる。イボ語はヨルバ語・ハウサ語と共にナイジェリアの公用語の1つに定められており、オニチャアバオウェリエヌグンネウィ英語版ンスッカ英語版アウカウムアヒアなどではイボ語が他の言語より支配的である。

イグボ、イボ
Ìgbo

 
総人口
3,500万人以上 (うちナイジェリア国内人口約3,200万人)
居住地域
ナイジェリアカメルーン赤道ギニア
言語
イボ語(イグボ語)
宗教
キリスト教伝統信仰ユダヤ教
関連する民族
イビビオ、イジョ、エコイ、イガラ、イドマ、ヌペ

伝統的な社会 編集

 
エヌグの景観

イギリスによる植民地支配が及ぶ以前はイボは王や首長を持たず半自治的な複数の共同体のかたちで存在していた。例外的にオニチャはオビと呼ばれる王が代々治め、ンリやアロチュクゥではエゼと呼ばれる祭司王が治めたが、多くのイボの町は住民の集会のみにより治められた。称号を持つ者たちは才能により彼らの間で尊敬されたが、集会で王として認められることはなかった。ただし時折集会で特別な役割が与えられた。このような統治形態は他の西アフリカの共同体とはかなり異なり、ガーナエウェのみに同じものがみられる。また、イボの秘密結社はンシビディと呼ばれる儀礼用の文書を伝えた。イボは1週が4日の暦を持っていた。7週が1月で、13月が1年だった。オクウェやムクピシと呼ばれる数学を持ち、イススと呼ばれる銀行や貸付けのシステムを持った。彼らは法的な問題を神への誓いのかたちで解決した。その人がある時間のうちに死ねば、神による追放あるいは隷属であるとして有罪とし、そうでなければ自由にされた。

イギリスによる支配以降 編集

1870年代のイギリスの到来とイボや他の「ナイジェリア人」との接触はイボ独自の民族的アイデンティティの感覚を深めることになった。またイボはキリスト教と欧州式の教育の取込みに熱心な民族の1つで、イギリスからは決断力が優れていると映った。イギリスによる植民地支配の下で、ナイジェリアの主要なエスニック・グループの内部の多様性は徐々に失われ、ハウサヨルバなど他の大きい民族集団とイボの違いがより先鋭化されるようになった。

イボの作家チヌア・アチェベの小説『崩れゆく絆』はイボへのイギリスによる新たな影響と伝統的な生き方との衝突を描いたフィクションの物語である。

アバ女性蜂起 編集

詳細はIgbo Women's War of 1929(英語)を参照。

1929年11月ベンデ地区と付近のウムアヒア、ングワその他の地域のイボの女性数千人が立ち上がり、植民地政府による女性の役割の制限に対しオロコの民事裁判官に抗議した[1]

不安定化とビアフラ独立 編集

 
ビアフラの領域

詳細はビアフラ戦争を参照。

1966年カドゥナ・ンゼオグ少佐らによるクーデター未遂事件が起き、ハウサのスルタンの子孫でソコトのサルドゥナの称号を持ち北部州の首相であったアフマドゥ・ベロらが殺害された。クーデターは別のイボのイロンシ少将により収拾された。しかしイロンシが連邦制廃止を決めると北部などではイボの虐殺が起こり、イロンシも殺害された。これにより権力を握ったヤクブ・ゴウォン中佐は連邦制を復活させ、州を細分化した。しかしイボへの虐殺は続き、最大200万人のイボが避難民として東部州へ逃れた。東部州の軍政官となっていたオジュク中佐は石油財源の東部州による管理を主張し、州の細分化に反対した。

1967年5月ゴウォン将軍との交渉が決裂したオジュクはビアフラ共和国の独立を宣言、ゴウォンは内戦へ突入した。ビアフラ側へもいくらかの支援はあったものの国際的な支援は連邦側に偏っていた。1970年オジュクは亡命し、ビアフラは消滅した。

その後 編集

戦争で病院、学校、住宅の多くが破壊されたばかりか、イボの預金はオバフェミ・アウォロウォの提案を受けた連邦政府によって凍結されイボランドの荒廃が進むきっかけとなる。20ポンド以上の所持を禁じる決定を聞いたイボの中から多くの自殺者も出た。

敗けたイボ(と東部の民族)は連邦政府において他の民族から差別を受けるようになる。雇用差別の対象にもなり、戦争前は比較的豊かであったのに1970年代には貧しい民族のうちの1つに数えられた。また以前イボが優勢だったポートハーコートではイジョと(イジョ系のサブグループである)イクウェレが勢力を増す。その後、イボランドは20年の歳月をかけて徐々に再建され、ニジェール・デルタの石油業界の隆盛により南部ナイジェリアに工場が増えるなどの契機を経て地域経済は再び盛り返し、その中で多くのイボは政府における立場なども回復している。

他の東部の多くの町同様、イボが主体の町ではインフラの整備が立ち遅れ、エヌグ、オニチャ、オウェリにおよぶ。また人口過密なイボランドから他の地域へ移住する者が多い。

離散 編集

ビアフラ戦争以前からも、イボは各地に移住していたが、戦後その傾向がさらに強まった。イボはラゴスベニン・シティアブジャなどの都市圏のほか、トーゴ、ガーナ、カナダ、イギリス、米国などに移住するようになった。ロンドンヒューストンワシントンD.C.にはイボのコミュニティがある。

著名人 編集

参考文献 編集

  • Oriji, John Nwachimereze (2000). “Igbo Women From 1929-1960”. West Africa Review 2 (1). OCLC 924285567. 

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

関連文献 編集

外部リンク 編集