インドネシア・ラヤ (新聞)

インドネシア・ラヤ』(Indonesia Raya) は、1949年モフタル・ルビスらによって共同創設されたインドネシア新聞1974年に廃刊されるまで、スカルノ政権、スハルト政権下で、何度となく発行禁止措置を受けた。

Indonesia Raya
設立者モフタル・ルビス
設立1949年
言語インドネシア語
廃刊1974年
インドネシアの旗 インドネシア

沿革 編集

『インドネシア・ラヤ』は、1949年モフタル・ルビスらによって共同創設された[1]。同紙は、軍の情報部局から、不定期的に資金提供を受けていたが[2]報道の自由を掲げた言論を展開し、政府を「第一の敵 (adversary number one)」としていた[3]1956年当時の『インドネシア・ラヤ』の発行部数は 40,000部であったが[4]1957年以降には、6回にわたり発行禁止措置を受けた[1]

 
ルビス編集長、1955年頃。

1958年10月、『インドネシア・ラヤ』は発禁となり、モフタル・ルビスは投獄された[5]。この日刊紙は久しく休刊状態だったが、1968年に至り、新秩序英語版政権下で発行が許可された[1]。かつての職員や役員が、仕事を再開するよう呼び戻され[5]

1969年以降、『インドネシア・ラヤ』はプルタミナの腐敗に関する数多くの記事を掲載した。『コンパス (Kompas)』など一部の新聞は『インドネシア・ラヤ』を支持したが、他の新聞は『インドネシア・ラヤ』がプルタミナと利害の対立を起こしており、石油公社をゆすろうとしているのだと主張した。最終的に1970年8月に至り、『インドネシア・ラヤ』は、報道を止めるか、深刻な反動に直面することになると告げられた[6]

『インドネシア・ラヤ』は1973年タイ王国で起きた学生蜂起と政権の崩壊を報じた。この報道は、マラリ事件の原因の一つとなったと考えられている[7]。事件後の1974年、『インドネシア・ラヤ』は再び発行禁止となったが、その一因はプルタミナの腐敗を報道したことにもあった[1][5]。モフタル・ルビスと数人の記者たちは裁判のないまま投獄され、他の記者たちもブラックリストに載せられた[5]。結局、同紙はそのまま廃刊となった[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e A. Junaidi (2004年7月3日). “Press freedom fighter, writer Mochtar Lubis passes away”. The Jakarta Post. 2012年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月9日閲覧。
  2. ^ Hill 1994, p. 32
  3. ^ Kakiailatu 2007, p. 61
  4. ^ Kakiailatu 2007, p. 70
  5. ^ a b c d Badri Jawara (2002年7月23日). “Press freedom 'still under threat'”. The Jakarta Post. 2011年7月9日閲覧。
  6. ^ Hill 1994, p. 38
  7. ^ Hill 1994, pp. 153–154

参考文献 編集

  • Hill, David T. (1994). The Press in New Order Indonesia. Jakarta: Equinox. ISBN 978-979-3780-46-7. https://books.google.com/books?id=joGf9_V8fmoC&dq=%22Indonesia+raya%22&pg=PA55 
  • Kakiailatu, Toeti (2007). “Media in Indonesia: Forum for political change and critical assessment”. Asia Pacific Viewpoint 48 (1): 60–71. doi:10.1111/j.1467-8373.2007.00330.x. http://www.acicis.murdoch.edu.au/hi/docs/JPP-3.Kakiailatu.pdf.