イーモラ

イタリアの都市

イーモラ: Imola)は、イタリアエミリア=ロマーニャ州ボローニャ県にある都市であり、人口約69,000人の基礎自治体コムーネ)。ボローニャに次ぎ、県内第二の人口を持つコムーネでもある。イモラとも表記される。

イーモラ
Imola
イーモラの風景
Duomo di Imola
イーモラの旗 イーモラの紋章
紋章
行政
イタリアの旗 イタリア
エミリア=ロマーニャ州の旗 エミリア=ロマーニャ
県/大都市 ボローニャ
CAP(郵便番号) 40026
市外局番 0542
ISTATコード 037032
識別コード E289
分離集落 #分離集落参照
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
公式サイト リンク
人口
人口 69298 人 (2023-01-01 [1])
人口密度 338.1 人/km2
文化
住民の呼称 imolesi
守護聖人 San Cassiano [2]
祝祭日 8月13日 [2]
地理
座標 北緯44度21分12秒 東経11度42分51秒 / 北緯44.35333度 東経11.71417度 / 44.35333; 11.71417座標: 北緯44度21分12秒 東経11度42分51秒 / 北緯44.35333度 東経11.71417度 / 44.35333; 11.71417
標高 47 (7 - 323) [3] m
面積 204.96 [4] km2
イーモラの位置(イタリア内)
イーモラ
イーモラの位置
ボローニャ県におけるコムーネの領域
ボローニャ県におけるコムーネの領域 地図
イタリアの旗 ポータル イタリア
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都市の歴史はローマ時代にさかのぼる。ルネサンス期にはカテリーナ・スフォルツァチェーザレ・ボルジアがこの地を拠点に活動した。15世紀に建築された大聖堂や要塞は都市の歴史的なランドマークとなっている。イモラ・サーキットは、かつてF1エミリア・ロマーニャGPサンマリノGPが行われたことで知られる。

名称 編集

標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。

地理 編集

位置・広がり 編集

ボローニャ県東部、サンテルノ川 (Santernoのほとりに位置する都市である。フォルリの西北西約30km、州都・県都ボローニャの南南東約33km、ラヴェンナの西南西約40kmの距離にある。ロマーニャ地方に含まれる。

隣接コムーネ 編集

隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のFEはフェラーラ県、RAはラヴェンナ県所属を示す。

気候分類・地震分類 編集

イーモラにおけるイタリアの気候分類 (itおよび度日は、zona E, 2292 GGである[5]。 また、イタリアの地震リスク階級 (itでは、zona 2 (sismicità media) に分類される[6]

歴史 編集

古代 編集

この都市はローマ時代紀元前82年に建設され、独裁官ルキウス・コルネリウス・スッラに因んで Forum Cornelii と呼ばれた。農業と交易の中心地であり、陶器で知られた。

中世 編集

Imola という名前が初めて用いられるのは7世紀である。ランゴバルド人たちはこの地の城砦(現在の Castellaccio. ランゴバルド王クレーフィが築いたとされる)にImola と名付けたのであるが、やがてこれが都市そのものの名前に用いられるようになった。

『ランゴバルド史』を著した8世紀の歴史家パウルス・ディアコヌスによれば、イーモラの地では412年にアタウルフ西ゴート王)とガッラ・プラキディアローマ皇帝テオドシウス1世の娘)の結婚が行われた。ゴート戦争(535年 – 554年)とランゴバルド人の侵入(568年)以後、この地は東ローマ帝国と蛮族が交互に支配を行った。

東ローマ帝国のラヴェンナ総督領を経て、ローマ教皇の支配下に入った。以後数世紀にわたってイーモラは、ラヴェンナファエンツァボローニャといった諸都市と抗争し、また都市内でも CastrimolesiCastro Imolese 出身者) と Sancassianesi(サンカッシアーノ出身者)の紛争が絶え間なく続いた。こうした抗争の中で、イーモラの共和主義的な都市憲章がつくられた。教皇派と皇帝派の争いにおいて、イーモラはおおむねギベリン(皇帝派)に付いているが、ゲルフ(教皇派)に鞍替えをすることもあった(たとえば1248年)。

ルネサンス期 編集

1296年、ギベリンのコンドッティエーレ(傭兵隊長)マギナルド・パガーニイタリア語版は、ボローニャの支配下にあったイーモラを占拠した。パガーニは1299年にポデスタ英語版(首長)に選出され、1302年の死までその席にあった。

1334年、ローマ教皇ベネディクトゥス12世は、アリドシ家のリッポ2世 (Lippo II Alidosiにpontifical vicarの称号とともに、イーモラの都市とその領域の支配権を与えた。アリドシ家の支配は1424年まで続く。

1424年、ミラノの支配者フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに従うコンドッティエーレ(傭兵隊長) Angelo della Pergola が、イーモラの支配権を獲得した。1426年、イーモラは教皇領に戻り、教皇特使イタリア語版(のちに枢機卿となる)ドメニコ・カプラニカイタリア語版のもとで新政権が発足する。 その後イーモラは、ヴィスコンティ家などのさまざまなコンドッティエーレたちの支配下に置かれ、現在も残るいくつかの城砦が築かれている。1434年、1438年、1470年にはスフォルツァ家(1450年にミラノ公となる)に引き渡されている。

1473年、スフォルツァ家のカテリーナ・スフォルツァジローラモ・リアーリオ英語版(教皇シクストゥス4世の甥)が婚約した際、イーモラは教皇に引き渡され、ジローラモが教皇からイーモラの領主に任命された(なお、教皇のイーモラ政策は、メディチ家と教皇との対立の原因となり、フィレンツェにおけるパッツィ家の陰謀につながった)。カテリーナとジローラモは1477年に結婚する。フォルリとイーモラの領主となったリアーリオ家のもとで、イーモラに豪華な宮殿や芸術作品をもたらすことになった(たとえば大聖堂や、1488年にフォルリで殺害されたジローラモの墓所である)。

 
レオナルド・ダ・ヴィンチによるイーモラの都市計画図(1502年)

しかしながらリアーリオ家による支配は短く、ボルジア家出身の教皇アレクサンデル6世は、ジローラモの後継者であるオッタヴィアーノ英語版の地位を奪った。女傑として知られるカテリーナ・スフォルツァは抵抗を試みるが、1499年11月25日にイーモラはチェーザレ・ボルジアによって占領された。1502年にロマーニャ公爵に叙せられたチェーザレは、イーモラに本拠を移して要塞建築を計画した。当時チェーザレの軍事技術者であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、チェーザレの命令を受けてイーモラの詳細な地図を描いている。

1503年、アレクサンドル6世の死とともにチェーザレ・ボルジアは失脚する。イーモラではガレアッツォ・リアーリオの派閥と教会の派閥が都市の支配を争い、教会派が勝利を収めた。1504年、イーモラは教皇ユリウス2世に寄進され、教皇領の一部となった。

近代 編集

1796年6月、フランス共和国軍はイーモラを占領した(フランス革命戦争参照)。フランス軍はいったん撤退するものの、1797年2月に再占領し、チスパダーナ共和国に編入した(のちチザルピーナ共和国に統合)。1799年、イーモラはオーストリアによって占領されるが、1800年にフランスによって奪回され、イーモラは再びチザルピーナ共和国に含まれることとなった。以後、イーモラはロマーニャ地方と歴史を共にすることになる。

行政 編集

分離集落 編集

イーモラには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。

  • Càsola Canina, Chiusura, Fabbrica, Linaro, Piratello, Ponticelli, San Prospero, Sasso Morelli, Sesto Imolese, Zello. Località: Balìa di Sesto Imolese, Cantalupo, Giardino, Montecatone, Selva, Spazzate Sassatelli

姉妹都市 編集

人物 編集

著名な出身者 編集

脚注 編集

  1. ^ Popolazione residente per sesso, età e stato civile al 1° gennaio 2023” (イタリア語). 国立統計研究所(ISTAT). 2024年3月3日閲覧。メニューでVista per singola areaを選択。Anno:2023, Ripartizione:Nord-est, Regione:Emilia-Romagna, Provincia:Bologna, Comune:Imola を選択
  2. ^ a b http://www.comuni-italiani.it/037/032/
  3. ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Bologna (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年9月14日閲覧。
  4. ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Bologna (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年9月14日閲覧。
  5. ^ Tabella dei gradi/giorno dei Comuni italiani raggruppati per Regione e Provincia”. 新技術エネルギー環境局(ENEA) (2011年3月1日). 2017年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月20日閲覧。
  6. ^ classificazione sismica aggiornata al aprile 2023” (xls). https://rischi.protezionecivile.gov.it/it/sismico/attivita/classificazione-sismica/. イタリア市民保護局. 2023年12月16日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集