エルンスト・フリードリヒ (ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公)

エルンスト・フリードリヒ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトドイツ語: Ernst Friedrich von Sachsen-Coburg-Saalfeld, 1724年3月8日1800年9月8日)は、テューリンゲン地方の諸侯の1人。ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公爵(在位:1764年 - 1800年)。ベルギー王レオポルド1世は孫、ベルギー王レオポルド2世とヴィクトリア女王は曾孫、ベルギー王アルベール1世とエドワード7世とポルトガル王ルイス1世とブルガリア王フェルディナンド1世は玄孫、ベルギー王レオポルド3世とジョージ5世とポルトガル王カルロス1世とブルガリア王ボリス3世は来孫、ベルギー王アルベール2世とジョージ6世とポルトガル王マヌエル2世とシメオン・サクスコブルクゴツキは昆孫、ベルギー王フィリップとエリザベス2世は仍孫、チャールズ3世は雲孫である。

エルンスト・フリードリヒ
Ernst Friedrich
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
在位 1764年 - 1800年

出生 (1724-03-08) 1724年3月8日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国、ザールフェルト
死去 (1800-09-08) 1800年9月8日(76歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国、コーブルク
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国、コーブルク、聖モーリツ教会
配偶者 ゾフィー・アントイネッテ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
子女
家名 ザクセン=コーブルク=ザールフェルト家
父親 フランツ・ヨシアス
母親 アンナ・ゾフィア・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット
宗教 キリスト教ルーテル教会
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生涯 編集

ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公子だったフランツ・ヨシアスと、その妃のシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯女アンナ・ゾフィアの間に長男(第1子)として生まれた。1758年にシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンハインリヒ35世英語版が、同族の男子相続者を差し置いてエルンスト・フリードリヒを侯領の相続人に指名したため、相続をめぐる訴訟に巻き込まれている。

1764年、父の死に伴い相当な負債を抱えたザクセン=コーブルク=ザールフェルト公爵領を相続した。莫大な借金の返済のため、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世は30年間の年限付きでコーブルク=ザールフェルト公爵領の債権処理委員会を設けた。この委員会の委員長は、最初はザクセン=ヒルトブルクハウゼン公子ヨーゼフ・フリードリヒ英語版が、次いでザクセン=ゴータ=アルテンブルク公エルンスト2世が務めた。この委員会の監督の下、エルンスト・フリードリヒは年に1万2000ターラーを債権者に納めさせられた。

1768年にエルンスト・フリードリヒは領内で宝くじを開始し、その収入は感化院や孤児院の経営を支援するために費やされた。また、農業に対しても支援を惜しまなかった。

子女 編集

1749年4月23日にヴォルフェンビュッテルにおいて、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルフェルディナント・アルブレヒト2世の四女ゾフィー・アントイネッテと結婚し、間に5男2女を儲けた。

  • フランツ(1750年 - 1806年) - ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公
  • カール(1751年 - 1757年)
  • フリーデリケ(1752年)
  • カロリーネドイツ語版(1753年 - 1829年)
  • ルートヴィヒ(1755年 - 1806年)
  • フェルディナント(1756年 - 1758年)
  • フリードリヒ(1758年)

参考文献 編集

先代
フランツ・ヨシアス
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公
1764年 - 1800年
次代
フランツ