オットー2世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)

オットー2世(Otto II., 1266年ごろ - 1330年4月10日)は、リューネブルク侯(在位:1277年 - 1330年)。厳格公(der Strenge)とよばれる。

オットー2世
Otto II.
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
オットー2世像(ツェレ、ボマン美術館)
在位 1277年 - 1330年

出生 1266年ごろ
死去 1330年4月10日
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領、リューネブルク、聖ミヒャエル修道院
配偶者 メヒティルト・フォン・バイエルン
子女 本文参照
家名 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家
父親 ブラウンシュヴァイク=リューネブルクヨハン
母親 ルイトガルト・フォン・ホルシュタイン
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生涯 編集

オットー2世はブラウンシュヴァイク=リューネブルクヨハンとルイトガルト・フォン・ホルシュタインの息子である。1277年に父が死去した時に未成年であったため、公領の統治は当初は伯父アルブレヒト1世、および1279年にアルブレヒト1世が死去した後は叔父フェルデン司教コンラートに委ねられたが、1282年に親政を開始した。オットー2世の統治下では、近隣領との間での境界や領地をめぐる対立を含むいくつかのフェーデが行われ、担保を差し出すことによりその資金を調達した。オットーは騎士の権利を制限し、治安を守った。また、ハールブルク、ダーレンブルク(1289年)およびツェレ(1292年)を移転し、都市法を与えた。1302年にはヴェルペ伯領を6,500マルク銀貨で購入した。1313年の国王選挙の後、オットーは義弟ルートヴィヒ4世と結び、1315年に領地を与えられた。1315年11月28日、オットーは自らの死後に2人の息子、オットーとヴィルヘルムが共同で公領を統治するよう継承法を定めた。

オットー2世は1330年4月10日に死去し、リューネブルクに自身が創建した聖ミヒャエル修道院に埋葬された。

子女 編集

1288年にルートヴィヒ2世の娘メヒティルト(マティルデ、1275年 - 1319年)と結婚し、以下の子女をもうけた。

  • ヨハン(1324年没) - ブレーメン大司教区の教区管理者
  • オットー3世(1296年 - 1352年) - ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公
  • ルートヴィヒ(1346年没) - ミンデン司教
  • ヴィルヘルム2世(1300年頃 - 1369年) - ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公
  • マティルデ(1316年没) - 1308年以降にヴェルレ侯ニコラウス2世と結婚

参考文献 編集

外部リンク 編集

先代
ヨハン
リューネブルク侯
1277年 - 1330年
次代
オットー3世
ヴィルヘルム2世