カサーン・ベイ (護衛空母)

アメリカ海軍のカサブランカ級護衛空母

カサーン・ベイ (USS Kasaan Bay, CVE-69) は、アメリカ海軍護衛空母カサブランカ級航空母艦の15番艦。

1944年9月16日撮影
艦歴
発注
起工
進水 1943年10月24日
就役 1943年12月4日
退役 1946年7月6日
その後 1960年2月2日にスクラップとして売却
除籍
性能諸元
排水量 7,800 トン
全長 512.3 ft (156 m)
全幅 108.1 ft (33 m)
吃水 22.5 ft (6.9 m)
機関 3段膨張式蒸気機関2基2軸、9,000馬力
最大速 19ノット
航続距離 10,240カイリ(15ノット/時)
乗員 士官、兵員860名
兵装 38口径5インチ砲1基、40ミリ機関砲16基
搭載機 28機

艦歴 編集

カサーン・ベイは1942年8月20日に ACV-69 (補助空母)に分類され、1943年10月24日に CVE-69 (護衛空母)として合衆国海事委員会の契約下ワシントン州バンクーバーカイザー造船所でR・W・モース夫人によって進水する。1943年12月4日に海軍に引き渡され、同日B・E・グロウ艦長の指揮下就役する。

第二次世界大戦 編集

カサーン・ベイは12月下旬に調整を終わり、1944年1月8日に真珠湾向けの航空機と貨物を輸送する任務に就くため、サンフランシスコを出港した。任務終了後、カサーン・ベイはサンディエゴに寄港の後、ノーフォークに向けて出港し、2月28日にノーフォークに到着してオーバーホールに入った。5月28日、オーバーホールを終えたカサーン・ベイは、ツラギ (USS Tulagi, CVE-72) およびミッション・ベイ (USS Mission Bay, CVE-59) とともにニューヨークを出港し、カサブランカへ向けての航空機と貨物の輸送任務を行った。帰途、カサーン・ベイらは5月29日にU-549によって撃沈されたブロック・アイランド (USS Block Island, CVE-21) の生存者342名を救助して、6月17日にニューヨークに帰投した。

6月30日、カサーン・ベイはロードアイランド州クォンセット・ポイント英語版を出港し、7月10日にオランに到着。7月の間、カサーン・ベイは来るドラグーン作戦のための演習を繰り返す一方、地中海での対潜哨戒と航空任務に従事していた。8月12日、カサーン・ベイはマルタを出撃し、3日後には南フランス沿岸部に到着。カサーン・ベイの航空機はドイツ軍陣地に対して爆撃や機銃掃射を行い、多数の車両や戦車を破壊した。反撃に出てきたドイツ機2機は、カサーン・ベイなどの対空砲火で撃墜された。8月30日、カサーン・ベイは戦場を後にしてオランに寄港した後9月6日に出港し、9月18日にノーフォークに帰投した。

カサーン・ベイは10月にカサブランカへの再度の航空機輸送任務に就き、任務終了後は太平洋艦隊チェスター・ニミッツ元帥)に配置換えとなり、1945年1月2日にサンディエゴに到着した。1月中は高速空母任務部隊(第58任務部隊)マーク・ミッチャー中将)の空母搭載機の補充に従事し、真珠湾、グアムおよびウルシー環礁にて航空機の入れ替えを行った。

カサーン・ベイは2月14日に真珠湾に帰投後、6月上半期までの間は、補充された航空機とパイロットの訓練に従事した。その後、秋に予定されていたダウンフォール作戦に備えてマーシャル諸島マリアナ諸島間の補給路で対潜哨戒を開始した。

戦後 編集

8月15日に日本が降伏すると、カサーン・ベイはグアムアプラ港に到着。復員兵帰還のマジック・カーペット作戦に参加して、帰還第一陣のベテランの復員兵グループを乗せて9月13日にサイパン島を出港し、9月30日にサンディエゴに到着した。次の3ヵ月の間は、フィリピン方面の復員兵輸送任務に就き、ハワイとフィリピンの間を3往復した。

カサーン・ベイは12月8日にサンフランシスコへ帰還し、1946年1月29日に東海岸へ向けて出航して2月22日にボストンに到着する。1946年7月6日に退役し、大西洋予備役艦隊入りする。予備役艦隊で保管中の1955年6月12日に CVHE-69 (護衛ヘリ空母)へ艦種変更される。カサーン・ベイは1960年2月2日にスクラップとして売却された。

カサーン・ベイは第二次世界大戦の戦功での1個の従軍星章を受章した。

外部リンク 編集