カタリーナ・フォン・ザクセン (1468-1524)

カタリーナ・フォン・ザクセン(ドイツ語:Katharina von Sachsen, 1468年7月24日 - 1524年2月10日)は、オーストリア大公ジークムントの二番目の妃。

カタリーナ・フォン・ザクセン
Katharina von Sachsen
カタリーナ・フォン・ザクセン(ルーカス・クラナッハ画)

出生 (1468-07-24) 1468年7月24日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領グリンマ英語版
死去 (1524-02-10) 1524年2月10日(55歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
カレンベルク侯領、カレンベルク
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
カレンベルク侯領ミュンデン、聖ブラジウス教会
配偶者 オーストリア大公ジークムント
  ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲン公エーリヒ1世
子女 アンナ・マリア
家名 ヴェッティン家アルブレヒト系
父親 ザクセン公アルブレヒト3世
母親 ズデンカ・ス・ポジェブラト
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生涯 編集

カタリーナはザクセン公アルブレヒト3世ズデンカ・ス・ポジェブラトの間の長子である。1484年に、カタリーナは16歳でオーストリア大公ジークムントと結婚したが、ジークムントはすでにこの時56歳であった。この結婚で子供は生まれなかった。カタリーナはチロルにおいて政治的役割を果たすことはなかった。1487年、ジークムントの前の愛妾は、カタリーナがジークムントを暗殺しようとしていると讒言した。ジークムントの政治体制はもはや維持できる状態になく、1487年にはジークムントはチロルの領地内で無力であり、フリードリヒ3世がチロルを支援する状態であった。ジークムントにより新しくつくられた制約のため、在地貴族との争いが絶えず起こっていた。最終的に1490年にジークムントは廃位され、その結果カタリーナに対する予算はかなり低いものとなった。ジークムントは1496年に死去し、カタリーナは1496年かその翌年にブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲン公エーリヒ1世と再婚したが、1女アンナ・マリアが生まれたのみであった。1524年にカタリーナは死去し、ミュンデンに埋葬された。ロイ・ヘリング英語版により墓碑が作られた。

参考文献 編集