カールスルーエ (軽巡洋艦・3代)

艦歴
発注:
起工: 1926年7月27日
進水: 1927年8月20日
就役: 1929年11月6日
退役:
その後: 1940年4月9日に戦没
除籍:
性能諸元
排水量: 6,650 トン(公称6,000トン)[1]
全長: 174 m
全幅: 15.2 m
吃水: 6.28 m
機関:
最大速: 30ノット(公称32ノット)[1]
兵員: 820名(公称約570名)[1] - 850名
兵装: 5.9インチ砲9門
3.5インチ砲6門
37mm対空砲8門
21インチ魚雷発射管12門

カールスルーエ (Karlsruhe) は、第一次世界大戦終結後、ドイツヴァイマル共和政)がヴェルサイユ条約の規定下で建造、ヴァイマル共和国軍海軍 (Reichsmarine) が運用した軽巡洋艦[注釈 1]ケーニヒスベルク級軽巡洋艦の一隻[注釈 2]。 艦名はバーデン地方の都市カールスルーエにちなむ[注釈 3]練習艦として遠洋航海に用いられ[5]、幾度か大日本帝国を訪問したこともある。

ナチス再軍備宣言により、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) 所属になった。第二次世界大戦開戦時は改装工事中であった[6]ドイツ軍北欧侵攻ヴェーザー演習作戦[7]に従事中の1940年(昭和15年)4月9日、イギリス潜水艦トゥルーアントの魚雷攻撃により沈没した[8]

艦歴 編集

 
上空から見た艦影。船体の中心線から、2番主砲と3番主砲がずれて配置されている[3]

ヴァイマル共和国軍が1920年代後半に建造したケーニヒスベルク級軽巡3隻(ケーニヒスベルク、カールスルーエ、ケルン)は、“K級軽巡洋艦”や[9]、“3K巡洋艦”と呼ばれることもある[注釈 4]ハンツ・ツェンカー英語版ドイツ語版海軍総司令官の指揮下で建造される[11]。カールスルーエは1926年(大正15年)7月27日、キールドイチェヴェルケ社で起工[1]。1927年(昭和2年)8月20日に進水[1]。1929年(昭和4年)11月6日に就役する[12]

第二次世界大戦前には海外への訓練航海などに従事した。1930年(昭和5年)5月24日から12月12日までアフリカ方面などへの航海をおこなう。1931年(昭和6年)11月30日から1932年(昭和7年)12月8日まで東南アジア、アメリカ方面へ航海。

1933年(昭和8年)1月30日、ナチス権力掌握によりヒトラー内閣が成立する。同年10月14日から1934年(昭和9年)6月15日まで再び東南アジア、アメリカ方面へ航海。同年10月22日から1935年(昭和10年)6月15日までアメリカ方面への航海をおこなう。この時のカールスルーエ艦長は、のちのライン演習作戦でドイツ戦艦ビスマルク (DKM Bismarck) と運命を共にしたギュンター・リュッチェンスであった[13](カールスルーエ艦長の在任期間は1934年9月~1935年9月)。

カールスルーエ(リュッチェンス艦長)が航海中の1935年3月16日、ナチス・ドイツ再軍備宣言をおこない、ヴァイマル共和国軍 (Reichswehr) はドイツ国防軍 (Wehrmacht) となる。それにともない、ドイツ共和国海軍 (Reichsmarine) もドイツ海軍 (Kriegsmarine) に改編された。 本艦の艦長がレオポルド・ジーメンス英語版ドイツ語版中佐に交代し、同年10月21日から1936年(昭和11年)6月8日まで東南アジア、日本、アメリカ方面への航海をおこなう。一例として、2月21日から3月2日にかけて九州長崎港に滞在する[14]。日本海軍の妙高型重巡洋艦足柄羽黒)などが停泊しており、2月24日にはジーメンス中佐(カールスルーエ艦長)と羽黒艦長鮫島具重大佐が双方の艦を訪問した[15]。 この年にスペイン内戦が始まると、ヨーロッパに戻ったカールスルーエもスペイン海域に派遣された。

ケーニヒスベルク級軽巡は、台風で船体に亀裂が生じた事もあり、船体強度や復元性能に不安を抱えていた[9]。1938年下旬よりウィルヘルムスハーフェン造船工廠で船体強度の改善工事をおこなうが、この改造を実施したのはカールスルーエだけであった[9]。船体幅を1.6メートル拡大して対空高角砲を強化したため、満載排水量は約650トン増大し、最大速力は30ノット以下になった[9]。1939年(昭和14年)9月初頭、第二次世界大戦がはじまる。11月、本艦の改装工事が終わり、訓練に従事した[9]

1940年(昭和15年)4月初旬、ドイツ軍はヴェーザー演習作戦を発動し、ノルウェー攻防戦がはじまる[16]。この北欧侵攻作戦で、カールスルーエと魚雷艇母艦ツィンタウドイツ語版は、水雷艇などと共にクリスチャンサンアーレンダール攻略を実施することになった[17]ヴェーザー演習作戦、ドイツ海軍戦闘序列)。 上陸部隊を載せた後、カールスルーエは4月8日に水雷艇ルクス (Luchs) とゼーアドラー (Seeadler) に伴われてブレーマーハーフェンを出撃した。途中で水雷艇グライフドイツ語版英語版、ツィンタウ 、Sボート部隊と合流し、濃い霧の中を目的地に向かって進んだ。4月9日朝、部隊はクリスチャンサンのあるフィヨルドへ侵入を開始した。ノルウェーの要塞からの砲撃を受けるが、カールスルーエは何度か攻撃をおこない、クリスチャンサンの占領に成功した。

同日19時、「カールスルーエ」は水雷艇3隻(ルクス、ゼーアドラー、グライフ)を伴って出港し、帰途に就いた[18]。20時ごろ、イギリス潜水艦トルーアント英語版の攻撃により、「カールスルーエ」に魚雷が命中した[19]。トルーアント(Christopher Haynes Hutchinson艦長)は10本の魚雷を発射し3度爆発音を聞いているが、ドイツ側の報告では命中魚雷は1本となっている[19]。「カールスルーエ」の損害は大きく、ルクスとゼーアドラーが乗員を収容したあと、22時50分にグライフから魚雷2本が打ち込まれ、「カールスルーエ」は沈没した[20][注釈 5][注釈 6]

長年、ノルウェーを攻撃したドイツの大型艦の中で唯一沈没場所が不明だったが、2020年9月、ノルウェー沖水面下488mの海底で80年ぶりに発見された。発見の3年前、送電網システムを運営するノルウェーの国営企業がソナーによる海底ケーブルの検査中に確認していたが、2020年夏にエンジニアらが作業船で更なる調査を行い、沈没位置を検証した。[22]

出典 編集

注釈 編集

  1. ^ 巡洋艦 “カールスルーエ Karlsruhe[2] 全要目{ 排水量6,000噸 速力32節 備砲15糎砲9門 8.8糎高角砲4門 魚雷發射管(53糎)12門 起工1926年7月 竣工1929年秋 建造所 キール・ドイチエウエルケ社 } 獨逸海軍の特徴は、また巡洋艦に於て劃然としたものがある。御承知の通り主砲は15糎砲で、列強の二等巡洋艦に相當してゐる。こもまたヴエルサイユ條約で7,000噸を超ゆべからずの制限を受けて來た獨逸ではこの輕巡洋艦に、世界大戰中勇名をとゞろかせた輕巡の(各都市名)名を襲がせてゐる。但し、艦名こそ同じであるが、艦型や兵装に於ては雲泥の差がある。三聯装砲塔は英米佛伊國より先んじて始められ、極細の艦體はその速力の少からざる優秀さを物語る。前よりの二本煙突と簡單化した前檣は全く獨逸の科學精神の獨創で從つて水平面の斷面はたゞ前後に長い紡錘形ではなく飛行機の支柱の斷面のやうな後に細長い流線型を造つてゐるのである。カタパルトは二本の煙突の間にある。
  2. ^ 巡洋艦 “ケルン Köln[3] 全要目{ 排水量6,000噸 速力32節 備砲15糎砲9門 8.8糎高角砲6門 魚雷發射管(53糎)12門 起工1926年8月 竣工1929年秋 建造所 ウイルヘルムスハーフエン海軍工廠 } 獨逸の輕巡洋艦全部が同型艦であるといつてもよく、要目はすべて同じだが“エムデン”が最も古く“ニユルンベルグ”が最も新らしい。そして新らしくなるに從つて艦型の進化があるから比較して見ると面白い。“ケルン” “カールスルーエ” “ケーニヒスベルグ Königsberg”は全く同型艦で、その中ケーニヒスベルグだけが高角砲が二聯装となつてゐる。或は他二艦もやがてさうなるかも知れぬが全く軍艦の對空兵装は日に日に進歩してゐるといつてよい。この三隻の特徴は艦尾が四角になつて居り、二番三番砲塔がやゝ中心線上からはづれてゐることである。これには何か造船上の理由があるらしい。全長137.63米、幅15.19米、平均吃水5.14米。
  3. ^ 初代は通商破壊戦で活躍したカールスルーエ級軽巡洋艦カールスルーエドイツ帝国海軍[4]、2代目は初代ケーニヒスベルク級軽巡カールスルエ英語版ドイツ語版スカパ・フロー自沈)、建造中止になったケルン級軽巡洋艦のカールスルーエ代艦 (Ersatz Karlsruhe) がある。
  4. ^ 巡洋艦カルㇽスルーエ(一九二九年秋竣工)[10] 排水量六〇〇〇噸、時速三二節。同時に竣工のケルンと共に二九年春竣工のケエーニヒスベルグ級に属し之の三隻を3K巡洋艦と稱ぶ。
  5. ^ 4月10日には、ベルゲンで姉妹艦ケーニヒスベルク (Königsberg) が[21]イギリス海軍艦隊航空隊第800海軍飛行隊第803海軍飛行隊)のブラックバーン スクアにより撃沈された。
  6. ^ ノルウェーからドイツへの帰路についていたポケット戦艦リュッツォウ (Lützow) もイギリス潜水艦スピアフィッシュ (HMS Spearfish) の雷撃で大破した(オスロフィヨルドの戦い[8]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e #S11、官房第421号 p.10〔 獨國軍艦「カールスルーエ」要目(ジェーンヌスファイティングシップスニ據ル) 〕
  2. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 163(原本308-309頁)巡洋艦カールスルーエ
  3. ^ a b ポケット海軍年鑑 1937, p. 164(原本310-311頁)巡洋艦ケルン
  4. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 16.
  5. ^ JACAR(アジア歴史資料センター)独逸国練習艦「カールスルーエ」艦長海軍中佐「レオポルト、ジイメンス」外一名叙勲ノ件(国立公文書館) 」 アジア歴史資料センター Ref.A10113184100 
  6. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 99a-100K級軽巡洋艦 ケーニヒスベルク級/軍備制限枠内で最大限の戦闘力を追及した戦後ドイツ型軽巡
  7. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 63–66ノルウェイ作戦「ヴェーザー演習」
  8. ^ a b 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 73.
  9. ^ a b c d e イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 99b.
  10. ^ 世界海軍大写真帖 1935, p. 56.
  11. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 30.
  12. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 100.
  13. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 129.
  14. ^ #S11.01足柄日誌(2) p.2(昭和11年2月21日金曜日記録)〔 0900|獨艦「カールスルーエ」號入港 〕〔 摘要 独艦「カールスルーヱ」在泊 〕、#S11.03羽黒日誌(1) p.2(昭和11年3月2日記録より)〔 1600|獨逸軍艦カールス・ルーエ號出港 〕
  15. ^ #S10.12羽黒日誌(2) p.36(昭和11年2月24日記録より)〔 0927|獨練習艦カールスルーエー艦長来訪/0950|獨練習艦カールスルーエー艦長退艦/0957|艦長出艦(獨軍艦訪問) 〕
  16. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 66–71ノルウェイ作戦始まる
  17. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 67.
  18. ^ German Light Cruisers of World War II, p.112
  19. ^ a b German Cruisers of World War Two, pp.90-91
  20. ^ German Cruisers of World War Two, p.91
  21. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 70.
  22. ^ 第2次大戦で沈没のドイツ軍艦、80年ぶりに発見 ノルウェー沖”. CNN. 2020年9月9日閲覧。

参考文献 編集

  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「ドイツの巡洋艦」『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3 
  • リチャード・ハンブル『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』実松譲 訳、サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫(26)〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9 
  • Gerhard Koop, Klaus-Peter Schmolke, German Light Cruisers of World War II, Naval Institute Press/Greenhill Books, 2002, ISBN 1-55750-310-9/1-85367-485-0
  • M. J. Whitley, German Cruisers of World War Two, Naval Institute Press, 1985, ISBN 0-87021-217-6
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『公文備考C巻6 儀制 海軍大臣官房記録 昭和8(防衛省防衛研究所)官房第5679号8.12.27獨逸巡洋艦「カールスルーエ」号の艦尾飾並に軍艦旗掲揚降下時の吹奏曲目に関する件』。Ref.C05022658300。 
    • 『公文備考 昭和10年D外事 巻11(防衛省防衛研究所)第4336号10.10.15独逸巡洋艦「カールスルーエ」本邦寄港に関する件』。Ref.C05034180500。 
    • 『公文備考 昭和10年D外事 巻11(防衛省防衛研究所)第4949号10.11.22独逸巡洋艦「カールスルーエ」寄港に関する件』。Ref.C05034180600。 
    • 『公文備考 昭和11年D外事 巻1(防衛省防衛研究所)11.1.26獨國演習艦「カールスルーエ」東京方面交歓予定の件』。Ref.C05034803500。 
    • 『公文備考 昭和11年D外事 卷6(防衛省防衛研究所)官房第421号11.1.17独逸巡洋艦「カールスルーエ」本邦寄港に関する件』。Ref.C05034833300。 
    • 『公文備考 昭和11年D外事 卷6(防衛省防衛研究所)外発秘第706号11.3.17独逸国軍艦退邦に関する件』。Ref.C05034833500。 
    • 『公文備考 昭和11年D外事 卷6(防衛省防衛研究所)第797号11.2.21独逸巡洋艦「カールスルーエ」の射撃訓練の件』。Ref.C05034833400。 
    • 『JACAR(アジア歴史資料センター)(防衛省防衛研究所)重巡洋艦足柄 昭和11年1月1日~3月31日(2)』。Ref.C11084018900。 
    • 『JACAR(アジア歴史資料センター)(防衛省防衛研究所)重巡洋艦羽黒 昭和10年12月1日~11年2月29日(2)』。Ref.C11084031600。 
    • 『JACAR(アジア歴史資料センター)(防衛省防衛研究所)重巡洋艦羽黒 昭和11年3月1日~5月31日(1)』。Ref.C11084031900。 

関連項目 編集

外部リンク 編集