USS Quincy (CA-71)
艦歴
発注: 1940年6月17日
起工: 1941年10月9日
進水: 1943年6月23日
就役: 1943年12月15日
退役: 1954年7月2日
除籍: 1973年10月1日
その後: 1974年に廃棄
性能諸元
排水量: 13,600 トン
全長: 673 ft 5 in (205.3 m)
全幅: 70 ft 10 in (31.4 m)
吃水: 20 ft 6 in
機関:
最大速: 33 ノット
乗員: 士官、兵員1,142名
兵装: 55口径8インチ砲9門、
59口径5インチ砲12門、
40mm機銃40基、
20mm機銃24基
搭載機: 2機

クインシー (USS Quincy, CA-71) は、アメリカ海軍重巡洋艦ボルチモア級重巡洋艦の4番艦。艦名はマサチューセッツ州クインシーに因む。その名を持つ艦としては3隻目。

艦歴 編集

クインシーは1941年10月9日にマサチューセッツ州クインシーベスレヘム・スチール社でセントポールの艦名で起工し、1942年10月16日に、8月9日の第一次ソロモン海戦で戦没したクインシー (USS Quincy, CA-39) の名を受け継いで改名される。1943年6月23日にヘンリー・S・モーガン夫人(チャールズ・フランシス・アダムズの娘)によって進水する。1943年12月15日にマサチューセッツ州サウスボストンのアメリカ海軍乾ドックでエリオット・M・セン艦長の指揮下就役した。

第二次世界大戦 編集

トリニダードベネズエラの間にあるパリア湾での整調後、クインシーは1944年3月27日に第22任務部隊に配属され、メイン州カスコ湾で訓練を行う。その後第27.10任務群と共に北アイルランドベルファストに向けて出航、5月14日に到着すると第12艦隊に合流する。翌15日、連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー将軍およびアラン・G・カーク少将がベルファスト湾で部隊の艦を観閲した。

クインシーは5月20日にベルファスト湾を出航、クライドに向かいスコットランドグリーノック沖に停泊、艦砲射撃の特別訓練を開始した。その後ベルファスト湾に帰還し、ヨーロッパ侵攻作戦の最終準備に入る。1944年6月6日の作戦当日には第125任務部隊の一部として05:37からユタ・ビーチの正面、バイエ・デ・ラ・サインに対して砲撃を開始した。

6月6日から17日までの間に、クインシーは敵拠点に対する正確なピンポイント射撃を行う。また、長距離砲を納めた沿岸砲台を沈黙させ、掃海作業の支援を行った。触雷し乗組員が脱出中の駆逐艦コリー (USS Corry, DD-463)、グレノン (USS Glennon, DD-620)、護衛駆逐艦リッチ (USS Rich, DE-695) に対して砲撃を行っていた敵の砲台に攻撃を行い、脱出を支援した。その後クインシーは6月17日にクインヴィルの解放に参加した。

 
グレートビター湖で会談するサウード国王とルーズベルト大統領。左はリーヒ提督

朝鮮戦争およびその後 編集

クインシーは1946年10月19日にワシントン州ブレマートンピュージェット・サウンド海軍造船所で予備役となり、太平洋予備役艦隊ブレマートン・グループで1952年1月31日まで保管された後、再び就役し朝鮮半島での国連軍を支援するため第7艦隊に配属された。整調および慣熟訓練の後、クインシーは高速空母任務群の護衛として韓国沖合で1953年7月25日から12月1日まで活動した。クインシーは1954年7月2日に再び退役した。

クインシーは第二次世界大戦の戦功で4個の従軍星章を受章した。クインシーの乗組員はさらに大西洋と太平洋両戦線の従軍記章を受章した。

サウジアラビア国王アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードルーズベルト大統領の会談が開催されたことを記念して、リヤドのアメリカ大使館はクインシー・ハウスと命名された。1995年にその50周年を記念して記念式典が開催された。当時のアメリカ大使レイ・マバスは会談の模型を個人的に寄付し、この模型はクインシー・ハウスで展示されている。

関連項目 編集

外部リンク 編集