クラムシー (ニエーヴル県)

クラムシーClamecy)は、フランスブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ニエーヴル県コミューン

Clamecy

行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏
(département) ニエーヴル県
(arrondissement) クラムシー郡
小郡 (canton) クラムシー小郡
INSEEコード 58079
郵便番号 58500
市長任期 クローディーヌ・ボワソリュー
2008年 - 2014年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes des Vaux d'Yonne
人口動態
人口 4 424人
2007年
人口密度 146人/km2
住民の呼称 Clamecycois, Clamecycoises
地理
座標 北緯47度27分39秒 東経3度31分13秒 / 北緯47.4608333333度 東経3.52027777778度 / 47.4608333333; 3.52027777778座標: 北緯47度27分39秒 東経3度31分13秒 / 北緯47.4608333333度 東経3.52027777778度 / 47.4608333333; 3.52027777778
標高 最低:142 m
最高:281 m
面積 30.26km2 (3 026ha)
Clamecyの位置(フランス内)
Clamecy
Clamecy
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地理 編集

クラムシーはヨンヌ川谷にあり、ヨンヌ川とブーヴロン川が合流する地点に位置する。

歴史 編集

634年、クラムシーはクラミシアクス(Clamiciacus)と呼ばれていた。百年戦争中の14世紀にクラムシーは荒廃した。

初めての特権は1213年、ヌヴェール伯エルヴェ4世によって与えられた。16世紀から20世紀初頭まで、いかだによる木材輸送で繁栄していた(最後のいかだは1923年に出発した)。

フランス第二共和政の間、パンフレットや新聞でパリの情報を得ていた船乗りによって、クラムシーはパリで起きた出来事に敏感であり、左派の投票傾向があった。保守政党パルティ・ド・ロルドル(fr)が議会の多数を占めると、保守的な議会は不安定をもたらした。1851年、民衆の抗議活動は共和政の減退をもたらし、憲兵隊は民衆によって武装解除された[1]。ルイ・ナポレオン・ボナパルト(のちのナポレオン3世)らによる1851年クーデター(en)が起きると、12月5日にクラムシー住民は憲法違反の抗議を行い[2]、暴動は厳しく弾圧された。

ナチス・ドイツによるフランス侵攻終盤の1940年6月18日、第3SS装甲師団に属すると思われるドイツ兵たちが、アフリカでの戦闘で捕らえたフランス軍捕虜41人(セネガル人歩兵を含む)を処刑した[3]

みどころ 編集

  • サン=マルタン参事会教会 - 13世紀。16世紀再建。
  • ノートルダム・ド・ベトレム教会 - ジョルジュ・テオドール・ルノー設計によるコンクリート建築。

出身者 編集

姉妹都市 編集

脚注 編集

  1. ^ Bernard Moreau, Marianne bâillonnée : les républicains de l’Indre et le coup d’État du 2 décembre 1851, Chaillac : Points d’Æncrage, 2002. 109 p., ISBN 2-911853-05-9, p. 11
  2. ^ Bernard Moreau, op. cit., p. 24
  3. ^ Scheck, R. (2007). Une saison noire. Les massacres de tirailleurs sénégalais. Mai-juin 1940. Paris : Tallandier. p. 55.