クラーク空軍基地(クラークくうぐんきち、英語: Clark Air Base)は、かつてフィリピンの首都マニラの北西約60kmルソン島パンパンガ州アンヘレスの北西部に存在したアメリカ空軍基地

クラーク空軍基地 Clark Air Base
フィリピンの旗 フィリピン パンパンガ州アンヘレス市
駐留するアメリカ空軍 太平洋空軍(1989年)
座標北緯15度11分09秒 東経120度33分35秒 / 北緯15.18583度 東経120.55972度 / 15.18583; 120.55972 (Clark Air Base)
種類空軍基地
施設情報
所有者フィリピンの旗 フィリピン
管理者フィリピン空軍
現況利用中
歴史
建設1903年9月1日
建設者アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
使用期間1903年 – 1991年(アメリカ合衆国)
1992年 – 現在(フィリピン)
2012年 - 現在(アメリカ合衆国)
駐屯情報
駐屯部隊アメリカ空軍 太平洋空軍
  • 第1航空師団
    1st Air Division
  • 第410整備航空団
    410th Maintenance Wing
  • 第420補給航空団
    420th Supply Wing
  • 第600航空基地航空団
    600th Air Base Wing
  • 第710特殊作戦航空団
    710th Special Operations Wing
  • 空軍兵站軍団
    Air Force Logistics Command
  • 空軍予備役軍団
    Air Force Reserve Command

(1957年7月1日 - 1991年12月16日)
基地情報
IATA: CRK - ICAO: RPLC
概要
標高 148 m
座標 北緯15度11分09秒 東経120度33分35秒 / 北緯15.18583度 東経120.55972度 / 15.18583; 120.55972座標: 北緯15度11分09秒 東経120度33分35秒 / 北緯15.18583度 東経120.55972度 / 15.18583; 120.55972
地図
フィリピン内の基地位置図
フィリピン内の基地位置図
CRK/RPLC
フィリピン内の基地位置図
滑走路
方向 長さ (m) 表面
02R/20L 3,200 コンクリート
02L/20R 3,200 コンクリート
リスト
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基地名は、1919年パナマ運河近くで水上機の事故で亡くなった、ハロルド・M・クラーク少佐の名からとられた。

歴史 編集

1903年の開設後、フィリピンにおけるアメリカ軍の重要な拠点とされ、第二次世界大戦時には1942年大日本帝国海軍が占領し、「クラーク北」「クラーク中」「クラーク南飛行場」「クラークフィールド飛行場」「マバラカット飛行場」「マルコット飛行場」「バンバン飛行場」など複数の飛行場群を設置、運用した。これらはフィリピン基地航空隊の中心的存在であった。

1941年12月8日に太平洋戦争が開戦すると、日本軍はクラーク・フィールド飛行場などにも攻撃を加えはじめた。同年12月14日、アメリカ陸軍省は飛行場が爆撃を受けたことを認めている[1]。その後、上陸した日本軍が一帯を占領して飛行場を再開、運営した。1944年10月には、最初の神風特別攻撃隊がマバラカット飛行場より発進している。1945年1月、アメリカ軍がルソン島に上陸し、激しい戦いの後、アメリカが再占領した。

1947年3月14日アメリカ合衆国フィリピンは、1991年9月までクラーク空軍基地の使用を規定した軍事基地協定を調印した。

1975年ベトナム戦争時は、アメリカ空軍にとって重要な出撃地の1つであった。ピークは1990年頃で、15,000人もの人口を抱え、学校レストラン映画館百貨店ホテルゴルフ場放送局などの施設が完備され、商業エリアと住宅エリアとに分かれていた。アメリカ国外では最大の米軍基地で、F-4E/Gなどが配備されていた。

基地の使用期限延長に関する交渉中の1991年4月、20kmほどしか離れていないピナトゥボ山が活動し始めた。クラーク空軍基地は、ピナトゥボ山から過去の大噴火で噴出した火砕流火山灰が積もって出来た平野にあるため、大きな被害を受けることが予想された。6月に入って本格的な噴火が始まり、兵員の大半とその家族は、スービック海軍基地へ避難した。噴火のピークは6月15日で、火砕流が基地の近くにあった演習場を埋め尽くし、基地自体の敷地にも侵入した。航空機の格納庫を含む多くの建物が、屋根に降り積もった火山灰の重さで倒壊した。当時の冷戦終結という環境変化もあり、基地の使用期限延長はなされず、アメリカ軍はクラーク空軍基地の放棄を決定し、スービック海軍基地と共に、1991年11月26日にフィリピン政府に返還された。

返還後、基地の跡地はフィリピンのクラーク経済特別区 (CSEZ) に転換され、フィリピン空軍が管理することになったが、2012年に米軍が駐留を再開したことから米軍基地として復帰した[2]

出典 編集

  1. ^ マニラの婦女子全員避難『朝日新聞』(昭和16年12月16日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p448 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ Munoz, Carlo (2012年7月6日). “The Philippines re-opens military bases to US forces”. ザ・ヒル. http://thehill.com/policy/defense/231257-philippines-re-opens-military-bases-to-us-forces- 2016年9月12日閲覧。 

関連項目 編集

外部リンク 編集