クリモンゴル語: Quli, ? - 1258年?)は、ジョチの息子オルダの第2子で、ジョチ・ウルスの王族の一人。

オルダ・ウルス(ジョチ・ウルスの左翼部)を代表してフレグ西アジア遠征軍に従軍しアルメニア地方に領地を得たが、後にフレグによってクリ一族の権益は没収された。

概要 編集

クリはオルダ・ウルスの創始者オルダの次男として生まれた[1]

1251年、ジョチ・ウルス当主バトゥの後援によってトゥルイ家のモンケが第4代皇帝(カアン)となると、その次弟クビライを総司令とする東アジア遠征軍と、三弟フレグを総司令とする西アジア遠征軍の派遣が決定された。この時、クリはジョチ・ウルスの右翼ウルスを代表するトタル、中央ウルスを代表するバラガイとともに、左翼ウルス(=オルダ・ウルス)代表としてフレグの遠征軍に加わった[2]。フレグの指揮下でクリは「ホラズムからデヘスターン、マーザンダラーン」へと進出し[3]、この遠征に参加した褒賞としてアルメニア地方を領地として得た[4]

ところが、1259年にモンケが遠征先で急死すると、フレグ遠征軍を巡る状況は一変した。モンケの急死と、その後に帝位を巡ってクビライとアリク・ブケの間で帝位継承戦争が起こったことを知ったフレグはイラン一帯で自立することを決意し、アーゼルバーイジャーン地方を自らの根拠地として定めた。しかし、そもそも征服地はモンゴルの諸王家によって共有される「投下領」であってフレグの自立は「イランの地」の不法占拠に他ならず、とりわけアーゼルバーイジャーン地方の良質な草原を欲していたジョチ・ウルスとフレグの仲は決定的に悪化した。

『集史』「ジョチ・ハン紀」によると、ヒジュラ暦654年(1256年-1257年)にフレグは「バラガイがフレグに対して陰謀・詭計を考え、巫術を行った」と密告があったことを理由にバラガイを捕らえ、ベルケ(バトゥの弟でこの頃のジョチ・ウルス当主)の了解を得た上で彼を「ジャサク」によって処刑し、更に「トタル、クリも相継いで身罷った」という[5]。『集史』はフレグの末裔たるガザン・ハンによって編纂された史書であるため、フレグの行為を正当化していると考えられており、また『集史』「ジョチ・ハン紀」の記述は「フレグ・ハン紀」の記述とも細部が食い違う。一方、アルメニア側の史料では「まずクリがバグダード攻略前に死去しており、その後バラガイとトタルがジャサクによって処刑され、クリの地位を継承していたミンガンは幽閉された」と伝えており、時系列としてはこちらの方が正しいと考えられている[6]

アーゼルバーイジャーン地方の占拠に加え、ジョチ家の王族を立て続けに処刑したことはジョチ・ウルス全体を激怒させ[7]、遂に右翼ウルスのノガイがフレグ討伐のためアーゼルバーイジャーン地方に派遣されることになった(ベルケ・フレグ戦争)。結局、ノガイはフレグをアーゼルバーイジャーン地方から排除することはできなかったが、アーゼルバーイジャーン地方を巡るジョチ・ウルスとフレグ・ウルスの間の対立は以後長く残った。

子孫 編集

『集史』「ジョチ・ハン紀」第1部によると、クリにはコンギラト部出身のネンディケン(Nendiken)、ガダガン(Qadagan)、西アジア遠征に同行して遠征先で亡くなったコクテニ(Kökteni)という3人の有力な大カトンがいたという[3]

また、クリにはトゥムケン(Tümken)、トゥメン(Tümen)、ミンガン(Mingγan)、アヤチ(Ayači)、ムサルマーン(Musulman)という5人の息子がいたとされ、その内トゥメンがネンディケン・カトンから、ムサルマーンがガダガン・カトンから生まれたと記される[8]

オルダ王家 編集

歴代オルダ・ウルス当主 編集

  1. オルダ
  2. コンクラン
  3. テムル・ブカ
  4. コニチ
  5. バヤン

脚注 編集

  1. ^ 北川1996,75頁
  2. ^ 赤坂2005,130-132頁
  3. ^ a b 北川1996,78頁
  4. ^ 赤坂2005,136/286頁
  5. ^ 宮2018,702-703頁
  6. ^ 宮2018,703-704頁
  7. ^ 『集史』「フレグ・ハン紀」は「彼(ベルケ)の親族たるトタル、バラガイ、クリを死に至らしめた時、憎悪・憤怒が彼等の間で顕わになり、一日一日と増幅していった」と伝えている(宮2018,701頁)。
  8. ^ 北川1996,78-79頁

参考文献 編集

  • 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』風間書房、2005年
  • 北川誠一「『ジョチ・ハン紀』訳文 1」『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 村岡倫「オルダ・ウルスと大元ウルス」『東洋史苑』52/53号、1999年