クール・パパ・ベル

アメリカ合衆国の野球選手 (1903-1991)

クール・パパ・ベル(James Thomas "Cool Papa" Bell、1903年5月17日 - 1991年3月7日)は、アメリカ合衆国ニグロリーグで活躍していた選手。主なポジションは中堅手ミシシッピ州スタークビル生まれ。左投げのスイッチヒッター

クール・パパ・ベル
Cool Papa Bell
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ミシシッピ州スタークビル
生年月日 1903年5月17日
没年月日 (1991-03-07) 1991年3月7日(87歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
150 lb =約68 kg
選手情報
投球・打席 左投両打
ポジション 外野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
  • セントルイス・スターズ (1922 - 1928)
  • シカゴ・アメリカン・ジャイアンツ(1929)
  • セントルイス・スターズ(1929-1931)
  • デトロイト・ウルヴズ (1932)
  • カンザスシティ・モナークス (1932)
  • ホームステッド・グレイズ (1932)
  • ピッツバーグ・クローフォーズ (1933 - 1937)
  • シカゴ・アメリカン・ジャイアンツ (1942)
  • ホームステッド・グレイズ (1943 - 1946)
殿堂表彰者
選出年 1974年
選出方法 ニグロリーグ特別委員会選出

来歴・人物 編集

1922年からニグロリーグでプレーを始める。当初は投手だったがその俊足が注目され1924年から外野に転向、センターを守っていた。

所属していたセントルイス・スターズを1929年から1931年までのリーグ3連覇に導いた後は、デトロイトやカンザスシティなどのチームを転々とする。1938年から1941年の間はメキシコリーグでプレーをしていた。1942年にシカゴ・アメリカン・ジャイアンツに移籍してニグロリーグに復帰。チームはこの年から1944年までリーグを3連覇した。現役時代のベルの人気は絶大で、ニグロリーグのオールスターによる東西対抗戦には、1933年から1944年まで(メキシコリーグ在籍時を除く)毎年投票で出場していた。

1940年以降はマネジメントや若い選手達の指導などもこなしていた。ベルの教え子の中には、後に野球殿堂入りするアーニー・バンクスジャッキー・ロビンソンらも含まれていた。選手としては1946年までプレーしていたという。

1974年に、ニグロリーグ特別委員会アメリカ野球殿堂入り選手に選出。彼が69歳の時だった。1991年にミズーリ州セントルイスで87歳の生涯を閉じる。 2002年5月にカージナルス本拠地のブッシュ・スタジアムでベルの貢献を讃えて家族を招待し、球団関係者が参列しての銅像除幕式セレモニーが行われてカージナルスの英雄達と並んで銅像がある。

逸話など 編集

ベルの足の速さについては多くの話が伝えられている。ダイヤモンドをわずか12秒で1周したのが計測されたことがあり、試合でも、例えばタッチアップで2塁から生還したとか、犠牲バントで一塁から一気に三塁へ進むなど、一度に2つの塁を奪ったことが何度もあるという。正確なゲームの統計は残っていないが、ニグロリーグでは200試合足らずで175の盗塁を記録した。

ベルの俊足ぶりを表した「部屋の明かりを消してから、部屋が暗くなるまでの間にベッドに入ることができる」という例えが有名である。

表彰・記録 編集

出典・外部リンク 編集