グラーブ・シング(Gulab Singh, 1792年10月18日 - 1857年6月30日) は、北インドジャンムー・カシュミール藩王国の初代君主(在位:1846年 - 1856年 [1])。ジャンムー王国及びドーグラー朝の君主(在位:1822年 - 1856年)でもある。

グラーブ・シング
ジャンムー・カシュミール藩王国君主
在位 1846年 - 1856年2月20日

出生 1792年10月18日
死去 (1857-06-30) 1857年6月30日(64歳没)
シュリーナガル
子女 ランビール・シング
王朝 ドーグラー朝
父親 キショール・シング
テンプレートを表示

生涯 編集

 
グラーブ・シング像

1792年10月18日、グラーブ・シングはジャンムー王国ドーグラー朝)の君主(このときはまだ王ではない)キショール・シングの息子として生まれた[1]

1808年シク王国ランジート・シングにより、ジャンムーが征服された。だが、ドーグラー朝はシク王国の封臣として、ジャンムーの統治を認められた。

1821年、グラーブ・シングはキシュトワールを征服した。また、同年にはシク軍の遠征に参加し、デーラー・ガーズィー・ハーンを奪取した

1822年、父王キショール・シングが死亡し、グラーブ・シングが王位を継承した[1]

1834年、グラーブ・シングはラダック地方を征服した。これにより、多数の難民がラダックかチベットへと逃げた[2]

1841年から1842年にかけて、シク王国の武将ゾーラーワル・シングがチベットに侵攻し、チベットおよび中国の清朝との間に戦争が発生した(清・シク戦争[2]。このとき、グラーブ・シングは兵を供給し、ドーグラー兵がシク軍の主力となったため、この戦争はドーグラー戦争とも呼ばれる。

1845年から1846年にかけて、第一次シク戦争が発生したが、グラーブ・シングはこの戦争ではイギリス側に味方し、和平に尽力した[3]。その結果、彼はジャンムーの独立の支配者としてイギリスから認められた。

さらに、同年3月にグラーブ・シングはアムリトサル条約を締結して、シク王国からイギリスに割譲されたカシュミールの領有も認められた[3]。彼はイギリスにカシュミールの代償として750万ルピーを払い、その総主権を認め、ここにジャンムー・カシュミール藩王国が形成された[3][4][5][1]

1856年2月20日、グラーブ・シングは退位し、藩王位は息子のランビール・シングが継承した[1]

1857年6月30日、グラーブ・シングはインド大反乱のさなか、シュリーナガルで死亡した[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f Kashmir 3
  2. ^ a b デエ『チベット史』、pp. 185-187
  3. ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.285
  4. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.81
  5. ^ Panikkar, K. M. (1930). Gulab Singh. London: Martin Hopkinson Ltd. p. 112. https://archive.org/details/gulabsingh179218031570mbp 

参考文献 編集

  • ロラン・デエ 著、今枝由郎 訳『チベット史』春秋社、2005年4月。ISBN 4-393-11803-0 
  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 
  • ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。 

関連項目 編集

先代
ジャンムー・カシュミール藩王国君主
1846年 - 1856年
次代
ランビール・シング