ゲルトルート・フォン・ズルツバッハ

ゲルトルート・フォン・ズルツバッハドイツ語:Gertrud von Sulzbach, 1110年ごろ - 1146年4月14日)は、ホーエンシュタウフェン家ローマ王コンラート3世の妃。

ゲルトルート・フォン・ズルツバッハ
Gertrud von Sulzbach
ローマ王
ゲルトルートの墓像(エーブラハ修道院)
在位 1138年3月7日 - 1146年4月14日

出生 1110年ごろ
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ズルツバッハ伯領、ズルツバッハ城
死去 1146年4月14日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
フランケン、ヘルスフェルト修道院
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
エーブラハ、エーブラハ修道院
結婚 1136年
配偶者 ローマ王コンラート3世
子女 ハインリヒ(6世)
フリードリヒ4世
家名 ズルツバッハ家
父親 ズルツバッハ伯ベレンガル2世
母親 アーデルハイト・フォン・ヴォルフラーツハウゼン
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生涯 編集

ゲルトルートは、バイエルンのズルツバッハ伯ベレンガル2世(1080年ごろ - 1125年)とアーデルハイト・フォン・ヴォルフラーツハウゼン(1126年没)の娘である[1]。妹ベルタ東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスの皇后となった。

ゲルトルートが生まれたころ、父ベレンガル2世は1111年に最後のザーリアー家の皇帝ハインリヒ5世の戴冠に参加した貴族の一人であった。ベレンガル2世は、戴冠式に関する文書の保証人として記録に残されている。1120年、ベレンガル2世はバンベルク司教に寄付を行ったと記録されている。また、ベレンガル2世は1103年ごろにカストル修道院を共同で創建し、1101年から1102年にかけて母親のためにベルヒテスガーデン修道院を、1107年から1109年にかけてバウムブルク修道院をそれぞれ創建したといわれる。ベレンガル2世はまた、1122年12月23日に皇帝ハインリヒ5世とローマ教皇カリストゥス2世の間で結ばれたヴォルムス協約に署名したドイツ貴族の一人であった。1125年8月、ベレンガル2世の名はハインリヒ5世の次の皇帝ロタール3世の文書に記されており、その4ヶ月後にベレンガル2世の死が記録されている。

1136年、ゲルトルートは前のシュヴァーベン大公フリードリヒ1世の息子コンラート・フォン・ホーエンシュタウフェンと結婚した[1]。コンラートの兄フリードリヒ2世がシュヴァーベン大公位を継承し、コンラート自身は1127年にローマ対立王に選出されていた。しかし1133年に対立していたロタール3世が神聖ローマ皇帝として戴冠し、最終的にコンラートは1135年に降伏した。その翌年、コンラートは皇帝のイタリア遠征に参加し、ゲルトルートと結婚した。このホーエンシュタウフェン家とズルツバッハ伯家の結婚により、両家は緊密な関係を築くこととなった。ゲルトルートの兄ゲープハルト3世が1188年に死去してズルツバッハ伯家の男系が絶えた時、ホーエンシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ1世が唯一の継承者となった。

1137年に皇帝ロタール3世が死去した後、最終的にゲルトルートの夫コンラートが1138年3月7日にローマ王に選出されたが、対立していたヴェルフ家バイエルン公ハインリヒ傲岸公およびその息子ハインリヒ獅子公ヴェルフ6世の主張をかわさなければならなかった。ホーエンシュタウフェン家による支配を確実なものとするため、コンラートは1147年3月13日にレーゲンスブルクで開催された帝国議会において、諸侯により10歳の息子ハインリヒ=ベレンガルをローマ共治王に選出させた。全般的に、コンラートは妃ゲルトルートの一族の支援に大きく依存していた[2]

ゲルトルートは次男フリードリヒを出産した後に病にかかり、1146年にヘルスフェルト修道院において36歳で死去した。ゲルトルートはエーブラハにあったシトー会修道院に埋葬された。

子女 編集

ゲルトルートは2男を産んだ。

脚注 編集

  1. ^ a b Otto I of Freising 1953, p. 54.
  2. ^ Freed 2016, p. 40.
  3. ^ Luscombe & Riley-Smith 2004, p. 754.
  4. ^ Lyon 2013, p. 244.

参考文献 編集

  • Freed, John B. (2016). Frederick Barbarossa: The Prince and the Myth. Yale University Press 
  • The New Cambridge Medieval History, c.1024-c.1198. IV, part II. Cambridge University Press. (2004) 
  • Lyon, Jonathan R. (2013). Princely Brothers and Sisters. Cornell University Press 
  • Otto I of Freising (1953). The Deeds of Frederick Barbarossa. Columbia University Press