コブレンツ

ドイツの都市

コブレンツコーブレンツKoblenz [ˈkoːblɛnt͡s] ( 音声ファイル))は、ドイツ連邦共和国の都市である。ラインラント=プファルツ州に属する。人口は約 10 万人。コプレンツとも表記される。

コブレンツ
ドイチェス・エック
紋章 地図
Wappen von Koblenz
Wappen von Koblenz
Lage der kreisfreien Stadt Koblenz in Deutschland
基本情報
連邦州: ラインラント=プファルツ州
標高: 海抜 64.7 m
面積: 105.25 km²
郵便番号: 56068 - 56077 (旧: 5400)
市外局番: 0261(一部 02606)
ナンバープレート: KO
自治体コード: 07 1 11 000
UN/LOコード: DE KOB
市の構成: 28 市区、 6 街区
市庁舎の住所: Willi-Hörter-Platz 1
56068 Koblenz
ウェブサイト: www.koblenz.de
E-Mail: [1]
住民(2006年6月現在)
人口:

113,638人(2021年12月31日現在) [1]

人口密度: 1,082 人/km²
負債: 約 37,200,000 €
失業率: 10.4%
外国人: 9.1%
年齢構成: 0-14 歳: 12.9%
15-64 歳: 65.3%
65 歳以上: 21.8%
性別人口比: 男性: 47.78%
女性: 52.22%
宗教: カトリック: 55.17%
福音派: 19.22%
その他: 25.61%
Politik
上級市長: ダーヴィト・ラングナー (David Langner、 (SPD))
多数政党: CDU

地勢・産業 編集

モーゼル川ライン川の合流点に位置し、河川交通の要衝である。モーゼル川がライン川に注ぎ込む箇所は、ドイチェス・エック(Deutsches Eck、「ドイツの角(かど)」)と称される。ドイツ騎士団1216年より後に、この地に騎士団の建物を創設したことに由来する [2]ワインの取引の他、そのライン川沿いの景観から観光業も発達している。近隣の都市としては、ライン川沿いの約50キロメートル北西にボン、80キロメートル北西にケルン、65キロメートル南東にマインツが位置している。モーゼル川を南西に約95キロメートルさかのぼるとトリーアに到達する。また、10キロメートルほど東には温泉地であるバート・エムスが位置している。

歴史 編集

紀元前8年前後に大ドルススによって、ローマ帝国の駐屯地としてこの地にカストルム・アプド・コンフルエンテス("Castellum apud Confluentes")(合流点の城砦の意)と称される城砦が築かれた。コブレンツの名はラテン語(ad) cōnfluentēs(合流点)に由来する。このラテン語名は、ガリア語Condate(「合流地」)の直訳借用語かもしれない [3]。砦近くに商人の集落も形成されたが、古代末期に破壊された。中世には、トリーア大司教領のもとで繁栄し、ハンザ同盟にも加盟した。フランス革命において、フランスの支配下に置かれる。19世紀前半、ウィーン議定書の取り決めに基づき、のちのドイツ帝国の中心となるプロイセン王国の支配下へと入る。

ローマ皇帝 ティベリウスの時代にローマ軍の駐屯地が置かれ、フランク族の侵入(259年 /260年)を受けて約5.8ヘクタールの土地を囲む強固な壁が築かれた。その後の防御施設の強化は駐屯の継続性を可能にした。5世紀にローマの城塞が放棄され、フランク王国メロヴィング朝の王宮が建造された。863年献堂の聖カストル教会(St. Kastor-Kirche)は後の市の発展を方向づけた。市の地形に根本的な影響を与えたのが、13世紀70年代/80年代のライン川方向への拡充である。これによって市域は約42ヘクタールにまで広がった[4]

教会組織上、コブレンツはフランク王国の時代以来 トリーア大司教管区に属していたが、13世紀半ばにトリーア大司教が君主の地位(Landeshoheit)を占めていた。13世紀後半には、2回目の都市壁構築と市域内での大司教城建設との関連で、大司教と市の間で激しい対立がうまれ、市民側の敗北に終わった。14世紀に新しい市民グループが市の指導層に参入し、参審人団(Schöffenkolleg)とならんで参事会(Rat)が設置されたが、大司教の支配的地位に揺るぎはなかった[5]

1302年には、種々の領邦国家に属する諸都市を一つにまとめあげる中部ライン都市同盟が、コーブレンツ、ボッパルト、オーバーヴェーゼル、アンダーナハ、そしてボンの間に成立し、後にはケルンもこれに加わった」[6]

ライン川とモーゼル川の合流地という恵まれた土地ゆえに中世初期以来帝国の重要な会議の場となり、大事件がここで発生した。たとえば、842年ヴェルダン条約(843年)の予備交渉(聖カストル教会において)。860年6月5-7日、 カロリング朝 3王の和平交渉。1138年2月22日ホーエンシュタウフェン朝 コンラート3世のドイツ王への選出。1198年9月8日、水を抜いたモーゼルの川床で行われたホーエンシュタウフェン家 フィリップ・フォン・シュヴァーベンとヴェルフェン家 オットー4世との戦闘。1338年 ルートヴィヒ4世が開催し、イングランドとフランスの仲裁をした宮廷会議。マクシミリアン1世1492年1月1日に開いた帝国会議など[7]

30年戦争1688年プファルツ継承戦争大同盟戦争)、フランス領時代をとおして繰り返し防備強化、部分破壊、防御施設撤去、再建がなされた。 第2次世界大戦中の市の中心部分の破壊は85%に及んだ [8]

文化・観光・伝説 編集

ドイチェス・エックには、ドイツ帝国初代皇帝であるヴィルヘルム1世の騎馬像が建てられた。1897年に除幕されたこの騎馬像に因み、皇帝は、当時の詩句においてカール大帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)を引き合いに出して賛美されたが、騎馬像は後に クルト・トゥホルスキーによって、馬鹿でかい「ケーキのデコレーション」(Tortenaufsatz)と皮肉られることになった[9]第二次世界大戦に際してアメリカ軍に破壊されたが、1953年に再建された[10]。ライン河畔からザイルバーンで対岸のエーレンブライトシュタイン要塞(Festung Ehrenbreitstein)[11]に渡ることができ[12]、ドイチェス・エックの景観を展望台から楽しむことができる。

コブレンツから65km南のビンゲン迄のライン川は、ライン渓谷中流上部として2002年に世界文化遺産に指定された。この区間のライン川遊覧船は数社が運行しており、コブレンツからも利用できる。

1982年から、コブレンツ市内の旧ランゲマルク兵舎ドイツ語版の建物内にドイツ連邦軍の管理する研究・教育施設兼、一般向け博物館・資料館としてコブレンツ国防技術博物館が設置され、公開されている。

1772年1773年 ゲーテは、当地に住んでいた、ヴィーラントのいとこで女流作家のゾフィー・フォン・ラ・ロシュ(Sophie von La Roche)の館を訪れ、家族の一員のように遇された様子を、自伝『詩と真実』(Dichtung und Wahrheit)において詳述している[13]

漫画家水木しげるは、かつては川中島であったコブレンツ郊外のオーバーヴェルト(Oberwerth)を舞台とする「死の踊り」という妖怪譚を描いている。「恋する人といっしょになれないで死ぬと死の踊りの地獄に落ちる」とあり、その場所がこの島とされている。14世紀中頃コブレンツの「武士」の娘が父の従者と恋仲になったが、父にその関係を反対されて死ぬ。彼はオーバーヴェルトに行き、踊り狂う少女たちの輪の中に入り踊り死ぬという話である[14]

スポーツ 編集

TuSコブレンツが、コブレンツを本拠地とするサッカークラブである。2006年、クラブ史上初のブンデスリーガ(2部)昇格を果たした。

主な出身者 編集

姉妹都市 編集

脚注 編集

  1. ^ Statistisches Landesamt Rheinland-Pfalz – Bevölkerungsstand 2021, Kreise, Gemeinden, Verbandsgemeinden
  2. ^ de:Baedeker: Deutschland. Ostfildern: Karl Baedeker 8.Aufl. 2005 (ISBN 3-8297-1079-8), S. 644.
  3. ^ Dieter Berger: de:Duden, geographische Namen in Deutschland: Herkunft und Bedeutung der Namen von Ländern, Städten, Bergen und Gewässern, Bibliographisches Institut, Mannheim/Wien/Zürich 1993 (ISBN 3-411-06251-7), S. 153.
  4. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1242-1243 (Beitrag von D. Kerber).
  5. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1243 (Beitrag von D. Kerber).
  6. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X) 、213-214頁。
  7. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1243-1244 (Beitrag von D. Kerber).
  8. ^ Michael Imhof / Stephan Kemperdick: Der Rhein. Kunst und Kultur von der Quelle bis zur Mündung. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2004 (ISBN 3-534-17215-9). S. 114.
  9. ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 229-230.
  10. ^ Deutschlands schönste Seiten. 100 Stationen einer Deutschlandreise. St.Gallen: Otus 2011 (ISBN: 978-3-905851-44-1), S. 80.
  11. ^ 10世紀に建設。中世においては主にトリーア 大司教が所有していたが、1801年フランス軍によって破壊され、1817年1832年 プロイセン王 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって今日見られる姿になった。なお、ジョージ・ゴードン・バイロンは『チャイルド・ハロルドの巡礼』(1816)第3歌、58スタンザで、破壊された状態のこの城塞をうたっている。Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 22 und 117.
  12. ^ 荒川裕子『もっと知りたいターナー 生涯と作品』東京美術、2017年、43頁。ISBN 978-4-8087-1094-1 
  13. ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 43-44. - Günther Dietel: Reiseführer für Literaturfreunde. I: Bundesrepublik Deutschland einschl. Berlin . Frankfurt/M-Berlin: Ullstein 1965. S. 183-184.
  14. ^ 水木しげる『世界の妖怪百物語』小学館クリエイティブ、2017年7月1日、154-155頁「第86話」。- 鶴田涼子「漫画家水木しげる先生とドイツ」〔郁文堂 Brunnen. Nr.524(Dez. 2021)、6-9頁、特に8頁〕

外部リンク 編集