コルネリス・ファン・ハールレム

コルネリス・ファン・ハールレム (Cornelis Corneliszoon van Haarlem, 1562年-1638年)は、ハールレム出身の画家。ハールレムのマニエリスム派の主要なメンバーであり、バルトロメウス・スプランヘルの影響を多大に受けた画家である。スプランヘルの素描はカレル・ヴァン・マンデルによって1585年にハールレムにもたらされ、その地の画家たちに影響を与えた[1]。ファン・ハールレムは主に肖像画や神話画、宗教画を描いた。当初はサイズの大きな作品で、イタリア風の解剖学的に不自然なねじれた裸体像を描いていたが、後にはオランダの伝統的な写実へと作風が変わっていった。

コルネリス・ファン・ハールレム
Cornelis Corneliszoon van Haarlem
誕生日 1562年
出生地 ハールレム
死没年 1638年
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生涯 編集

裕福な家庭に生まれるが、ファン・ハールレムの両親は1568年に八十年戦争の影響下、スペイン軍を避けてハールレムから移動した。しかしファン・ハールレムはハールレムに残り、画家のピーテル・ピーテルスゾーン・アールツェンに育てられその元で修業した。後にルーアンアントワープでも学んだ。

ファン・ハールレムは市でも知られた人物となり、1583年にハールレム市から依頼を受けて市民軍の集団肖像画を描いた。後に彼は市の画家として市から多くの依頼を受けた。

カレル・ヴァン・マンデルバルトロメウス・スプランヘル等と共にファン・ハールレムはハールレム・アカデミー (Haarlem Academy) を設立した。これはおそらく非公式のグループで、集まってヌードデッサンをしたり、作品について意見を交わすものだったと思われる[1]。また、その市の聖ルカ組合を再組織する点でも重要な役割を果たした。ファン・ハールレムの弟子にはコルネリス・クラースゾーン・ヘーダ(ウィレム・クラースゾーン・ヘーダの兄弟)がいるが、この人物はインドのビジャープルスルタンの元で活躍し、ファン・ハールレムの作風をインドに伝えた[2]

ファン・ハールレムは1603年より前にハールレム市長の娘Maritgen Arentsdochter Deymanと結婚した。1605年には義理の父親の財産の1/3を相続している。1631年もしくは32年には孫のコルネリス・ベーハが生まれており、彼もまた画家となりヤン・ステーンなどに影響を与えた[3]

ギャラリー 編集

参照 編集

  1. ^ a b Slive, 8
  2. ^ Gijs Kruijtzer,Xenophobia in Seventeenth-Century India (Leiden: Leiden University Press, 2009), 21
  3. ^ アーサー・K.ウィーロックJr., イヘ・フェルスライプ, 尾崎眞人, ダニエル・H.A.C.ローキン, 千足伸行 (2011). フェルメールからのラブレター展:公式カタログ. 朝日放送、テレビ朝日、博報堂DYメディアパートナーズ. pp. 80、190 

文献 編集

外部リンク 編集