コンドラチイ・ルイレーエフ

コンドラチイ・フョードロヴィッチ・ルイレーエフロシア語: Кондра́тий Фёдорович Рыле́ев、Kondratii Fyodorovich Ryleyev、1795年9月29日ユリウス暦9月18日) - 1826年7月25日ユリウス暦7月13日))は、帝政ロシア詩人革命家。いわゆるデカブリスト(十二月党)の指導者で、デカブリストの乱の首謀者の一人として処刑された。

コンドラチイ・ルイレーエフ

生涯 編集

1795年9月29日(ユリウス暦9月18日)、サンクトペテルブルク郊外のガッチナに近いバトヴォ(Batovo)に小規模な土地を所有する貴族の家系に生まれた。1801年サンクトペテルブルクの陸軍幼年学校、士官学校(第一軍事学校)に学ぶ。1814年学業を終え、1812年ロシア戦役に従軍した。1818年に軍を退役し、1821年サンクトペテルブルク刑事裁判所判事補を経て、1824年以降露米会社に勤務する。

この間、1820年に風刺頌(しょう、英語版では、オードOde)「ミニオンに」To Minionを執筆する。この作品は皇帝アレクサンドル1世の寵臣で国政を壟断していたアレクセイ・アラクチェーエフを明らかに風刺したものであった。翌1821年ルイレーエフは、当時、ペテルブルクでは最も著名な文学者の集まりである「自由ロシア文学愛好家協会」(: Вольное общество любителей российской словесности)に入会した。

その他、文学上の事業、事跡としては1823年から1825年にかけて、アレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・ベストゥージェフ英語版とともに、年鑑「北極星」(: Полярнаязвезда)を出版したことがあげられる。

1823年青年将校らの秘密結社「北方結社」に入会する。本来、北方結社は、穏健な立憲制導入を目指していたが、ルイレーエフ、ベストゥージェフらは、共和制を志向し、北方結社は急進化していった。

1825年12月27日(ユリウス暦12月14日)夜、皇帝弑逆の容疑で逮捕された。反乱失敗後、軍事法廷でパーヴェル・ペステリピョートル・カホフスキーセルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストルミハイル・ベストゥージェフ=リューミンそしてルイレーエフの5人は反乱の首謀者と見なされ、四つ裂き刑を宣告されたが、後に絞首刑に変更された。1826年7月25日にペトロパヴロフスク要塞で刑が執行され、遺体は、ペテルブルク、コロデイ島に秘密裏に葬られた。

参考文献 編集

関連項目 編集