コーブルク自由州
Freistaat Coburg
ザクセン=コーブルク=ゴータ公国 1918年 - 1920年 バイエルン自由州
コーブルクの国旗
(国旗)
コーブルクの位置
コーブルク自由州
公用語 ドイツ語
首都 コーブルク
州評議会議長
1918年11月30日 - 1919年7月8日 ヘルマン・クアルク
1919年7月11日 - 1920年5月1日フランツ・クリングラー
面積
1919年562km²
人口
1919年74,340人
変遷
ドイツ革命による君主制廃止 1918年11月14日
暫定憲法成立1919年3月10日
ザクセン=ゴータとの連合解消1919年4月12日
住民投票でバイエルン自由州との合邦を決定1919年11月30日
バイエルン自由州に合邦1920年7月1日
現在ドイツの旗 ドイツ

コーブルク自由州ドイツ語:Freistaat Coburg)は、1918年11月のドイツ革命ザクセン=コーブルク=ゴータ公国の君主制が倒されて成立したドイツ国自由州である。

テューリンゲン諸邦の中で唯一テューリンゲン州への合邦に参加せず、1920年7月1日にバイエルン自由州と合邦してその一部となり消滅した。

歴史 編集

コーブルク自由州の成立 編集

1918年11月のドイツ革命による君主制廃止の奔流はザクセン=コーブルク=ゴータ公国にも及び、11月14日にはカール・エドゥアルト公も退位した[1]。ザクセン=コーブルク=ゴータ公国は元々ザクセン=コーブルク公国ザクセン=ゴータ公国の同君連合であったため、それぞれ独自の議会と政府を有していた[2]。1919年2月9日にコーブルク州制憲議会選挙が行われ、11人の議員が選出された。ドイツ社会民主党は得票率58.6%を占めて7議席、ドイツ人民党ドイツ民主党、コーブルク農民連盟は合わせて得票率41.4%で4議席を獲得した。 州議会議長には社会民主党のエアハルト・キルヒナーが就任した。 1919年3月10日には暫定憲法として「コーブルク自由州の立法および行政に関する暫定法 (Vorläufige Gesetz über die Gesetzgebung und Verwaltung im Freistaate Coburg)」を採択した。 州評議会議長には元公国大臣で人民党のヘルマン・クアルクが就任し、閣僚たる州評議会議員にはフランツ・クリングラーおよびラインホルト・アルトマン (いずれも社会民主党) が選出され、いわゆる三頭体制が採られた。 1919年4月12日には「コーブルクおよびゴータ自由州の地域問題の管理に関する州条約 (Staatsvertrags über die Verwaltung der gemeinschaftlichen Angelegenheiten der Freistaaten Coburg und Gotha)」が調印され、1826年から続いたコーブルクとゴータの連合が正式に解消された。

州条約によって連合が解消されたものの、ドイツ国政府はコーブルク自由州を個別の州とは見なさず、あくまでザクセン=コーブルク=ゴータという国家連合の一部として扱った[3]

1919年6月7日にはカール・エドゥアルト公の退位に伴う補償について州議会との間で約定が結ばれた。所領の他、約4,500ヘクタールの森林、多数の建物、公の個人財産、要塞およびホーフガルテン美術館で所蔵する芸術品、図書館、劇場、ローゼナウ城とその所蔵品、コーブルク要塞、エーレンブルク城、国立公文書館は自由州の資産となり、公にはその対価として150万マルクが支払われた。このうち要塞およびホーフガルテン美術館で所蔵する芸術品とエーレンブルク宮殿の調度品はコーブルク州立財団の管理となった。カレンベルク城とその庭園および所蔵品、アイヒホフ城、ローゼナウにある533ヘクタールの領地はカール・エドゥアルト公の資産として留められた。

暫定憲法に基づき、州評議会議長ヘルマン・クアルクが政府および行政機関を統括する元首の立場にあったが、州評議会議員のラインホルト・アルトマンが1919年7月2日にテューリンゲン州法執行委員会のコーブルク代表に指名[4]されたことに抗議して辞任した。1919年7月11日には暫定憲法の改正が行われ、政府機構が刷新された。州評議会議長には社会民主党のフランツ・クリングラーが就任し、評議会議員に民主党のハンス・シャックが加わった。また、行政弁護士エルンスト・フリッチュは閣僚 (Ministerialdirektor) の名目で留任した。

バイエルン自由州との合邦へ 編集

州評議会は、コーブルク自由州は経済的に自立不可能であると考えており、他の自由州との合邦を模索していた。そのため、1919年3月と5月に行われたテューリンゲン諸邦合邦に関する会議に参加したものの、5月の共同体条約には同意しなかった。これと並行して、6月中旬からはバイエルン自由州、さらに7月からはプロイセン自由州とも交渉が持たれた。プロイセン自由州は8月にはプロイセンと同化する条件で合邦受け入れを発表した。一方、バイエルン自由州はより寛容で、特にコーブルクの文化遺産の保存については、テューリンゲン州とは対照的に多くの点で譲歩する姿勢を見せた。

自由州の帰属は、1919年11月30日に行われたドイツの歴史上初の民主的な住民投票[5]に諮られた。 「コーブルクはテューリンゲン共同体条約に参加すべきか?」 を問う住民投票には有権者の75%にあたる26,102人が投票し、そのうち実に88.11%が「参加すべきでない」とした。このため、コーブルク自由州はバイエルン自由州と合邦することになった。この結果には様々な理由があるが、コーブルクの住民は歴史的にテューリンゲン諸邦よりフランケン地方との繋がりが強かったこと、さらには第一次世界大戦ではコーブルクが他のテューリンゲン諸邦に食糧を供出させられる立場だったこと、バイエルン自由州が合邦の条件について極めて寛容な態度を示したことなどが影響している。

 
1920年2月14日に調印されたコーブルクとバイエルンの合邦に関する州間条約。コーブルクとバイエルンの全権代表による署名部分。
 
コーブルクとバイエルンの合邦に関する法律。1920年4月30日に制定され、1920年5月5日付ドイツ国官報に掲載された。

コーブルクとバイエルンの関係を規定する州間条約は1920年2月14日に調印された。その中で、コーブルクは州立財団、農林業職業組合、商工会議所、手工業会議所、州立病院、州立劇場について存続の保証を取り付けた。さらに、コーブルクは州政府の廃止の補償として、ラント裁判所を置くことを認められた。加えて、バイエルン自由州は州立劇場の赤字の最大40%、州立病院については最大75%を負担することを約束した。

1920年7月1日、コーブルク自由州はバイエルン自由州と統合し、約600年にわたるコーブルクの独立は終わりを告げた。州間条約により、コーブルク自由州はオーバーフランケン行政管区の郡となった。また、ケーニヒスベルク・イン・バイエルンの他、アルタースハウゼン、デルフリス、エアルスドルフ、ヘリンゲン、ケスラウ、コッテンブルンおよびナッサッハを含むケーニヒスベルク地区は、ウンターフランケン行政管区のホーフハイム地区 (現在のハースベルゲ郡) に編入された。

バイエルン自由州との合邦は、第二次世界大戦後に予想もしなかった結果をもたらした。旧コーブルク自由州はバイエルン自由州の一部としてアメリカ占領地域となったのに対して、一方のテューリンゲン州はソ連占領地域となったからである。この結果、1949年までは占領地域の境界線、1949年から1990年まではドイツ民主共和国との国境によって、テューリンゲン諸邦は分断されることになった。

政治 編集

 
ヴァイトラムスドルフにある三国国境の標柱。
KBバイエルン王国Königreich Bayern)
HSMザクセン=マイニンゲン公国Herzogtum Sachsen-Meiningen)
HSC:ザクセン=コーブルク公国(Herzogtum Sachsen-Coburg)

州評議会 編集

1919年3月10日 - 1920年7月1日

  • ラインホルト・アルトマン (社会民主党)
  • フランツ・クリングラー (社会民主党)
  • ヘルマン・クアルク (人民党)、1919年7月8日まで
  • ハンス・シャック (民主党)、1919年7月11日から

参考文献 編集

  • Harald Bachmann: 75 Jahre Coburg bei Bayern. In: Frankenland. Zeitschrift für fränkische Landeskunde und Kulturpflege 1995, Heft 3, ISSN 0015-9905, S. 143–150, online (PDF; 1,56 MB).
  • Carl-Christian Dressel: Die Bestimmungen des Staatsvertrags. Entwicklung, Hintergründe, Folgen – unter besonderer Berücksichtigung der Leistung von Franz Klingler. Facharbeit aus dem Fach Geschichte, Gymnasium Casimirianum Coburg, Kollegstufenjahrgang 1987/89. Eigenverlag Coburg 1989.
  • Jürgen Erdmann: Coburg, Bayern und das Reich 1918–1923. Druckhaus und Vesteverlag A. Rossteutscher, Coburg 1969, (Coburger Heimatkunde und Landesgeschichte Reihe 2, 22, ZDB-ID 1151614-8), (Zugleich: Würzburg, Diss., 1969: Coburg in den Anfangsjahren der Weimarer Republik 1918–1923).
  • Rainer Hambrecht (Bearb.): Nicht durch Krieg, Kauf oder Erbschaft. Ausstellungskatalog des Staatsarchivs Coburg anlässlich der 75. Wiederkehr der Vereinigung Coburgs mit Bayern am 1. Juli 1920, München 1995.
  • Esther Reinhart: Max Oscar Arnold (1854–1938). Leben und Wirken für das Coburger Land. Historische Gesellschaft, Coburg 2007, ISBN 3-9810350-3-8, (Schriftenreihe der Historischen Gesellschaft Coburg e.V., 21 Band).
  • Jörg Siegmund: Zwischen Konsens und Blockadepolitik. Die Übergangsparlamente in Sachsen-Gotha und Sachsen-Coburg. In: Harald Mittelsdorf (Red.): Die vergessenen Parlamente. Landtage und Gebietsvertretungen in den Thüringer Staaten und Gebieten 1919 bis 1923. Herausgegeben vom Thüringer Landtag. Hain, Rudolstadt u. a. 2002, ISBN 3-89807-038-7, (Schriften zur Geschichte des Parlamentarismus in Thüringen 19), S. 121–160.

外部リンク 編集

出典 編集

  1. ^ Harald Sandner: Coburg im 20. Jahrhundert. Die Chronik über die Stadt Coburg und das Haus Sachsen-Coburg und Gotha vom 1. Januar 1900 bis zum 31. Dezember 1999 – von der „guten alten Zeit“ bis zur Schwelle des 21. Jahrhunderts. Gegen das Vergessen. Verlagsanstalt Neue Presse, Coburg 2002, ISBN 3-00-006732-9, S. 67
  2. ^ Ulrich Hess: Geschichte Thüringens 1866–1914. S. 226
  3. ^ Jürgen Erdmann: Coburg, Bayern und das Reich 1918–1923. Druckhaus und Vesteverlag A. Rossteutscher, Coburg 1969, S. 43
  4. ^ Jürgen Erdmann: Coburg, Bayern und das Reich 1918–1923. Druckhaus und Vesteverlag A. Rossteutscher, Coburg 1969, S. 40
  5. ^ Harald Sandner: Coburg im 20. Jahrhundert. Die Chronik über die Stadt Coburg und das Haus Sachsen-Coburg und Gotha vom 1. Januar 1900 bis zum 31. Dezember 1999 – von der „guten alten Zeit“ bis zur Schwelle des 21. Jahrhunderts. Gegen das Vergessen. Verlagsanstalt Neue Presse, Coburg 2002, ISBN 3-00-006732-9, S. 70