サボ・アイランド (護衛空母)

アメリカ海軍の護衛空母。カサブランカ級。
艦歴
発注
起工 1943年9月27日
進水 1943年12月22日
就役 1944年2月3日
退役 1946年12月12日
その後 1960年2月29日にスクラップとして売却後、解体
除籍 1959年9月1日
性能諸元
排水量 7,800 トン
全長 512.3 ft (156 m)
全幅 108.1 ft (33 m)
吃水 22.5 ft (6.9 m)
機関 3段膨張式蒸気機関2基2軸、9,000馬力
最大速 19ノット
航続距離 10,240カイリ(15ノット/時)
乗員 士官、兵員860名
兵装 38口径5インチ砲1基
40ミリ機関砲16基
搭載機 28機

サボ・アイランド (USS Savo Island, CVE-78) は、アメリカ海軍護衛空母カサブランカ級航空母艦の24番艦。艦名はサボ島に因んで命名された。

艦歴 編集

本艦は1943年9月27日に合衆国海事委員会の契約下ワシントン州バンクーバーカイザー造船所カイタ・ベイ (Kaita Bay) として起工する。1943年11月6日にサボ・アイランドと改名され、1943年12月22日にマーガレット・タファインダーによって進水する。1944年2月3日にC・E・エクストロム艦長の指揮下就役する。

1944 編集

サンディエゴでの慣熟訓練を終えた後、3月15日から7月2日までの間、サボ・アイランドは南西太平洋方面へ航空機の交換任務に就いた。7月6日、自己の航空隊を乗せたサボ・アイランドは、サンディエゴと真珠湾で訓練を行った。一連の訓練を終えた後の8月4日、サボ・アイランドは真珠湾で第3艦隊ウィリアム・ハルゼー大将)に合流した。サボ・アイランドはペリリューの戦いの支援で初陣を飾った。9月11日から30日までの間、サボ・アイランドは他の護衛空母とともに上陸部隊支援と空中哨戒任務を務めた。10月3日、サボ・アイランドはマヌス島第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将)に移り、フェリックス・スタンプ少将率いる第77.4.2任務群(通称「タフィ2」)に加わった[1]。10月12日、サボ・アイランドはレイテ島の戦いに向かう上陸部隊と、それを護衛する戦艦巡洋艦などとともにマヌス島を出撃し、10月18日にはレイテ島沖に到着と同時に。2日後に迫った上陸に先立って空襲を開始した。

10月25日のレイテ沖海戦では、クリフトン・スプレイグ少将率いる第77.4.3任務群(通称「タフィ3」)が、栗田健男中将率いる日本艦隊の猛攻により一時危機に陥った。第77.4.2任務群の駆逐艦護衛駆逐艦は、苦闘する第77.4.3任務群救援に急行して、約30分間撃たれ続けた。第77.4.3任務群を救うため、第77.4.2任務群はトーマス・L・スプレイグ少将率いる第77.4.1任務群(通称「タフィ1」)と合同して戦闘機と攻撃機を飛ばし、6度にわたる攻撃の末に3隻の巡洋艦を脱落させ、栗田艦隊は引き返していった。サボ・アイランドのTBM アヴェンジャーは栗田艦隊への攻撃で9本の魚雷を消費したが[2]、戦果は定かではない。その栗田艦隊と入れ替わるように、神風特別攻撃隊の初めての攻撃が行われた。第77.4.2任務群の護衛空母は、そのどちらの攻撃にも遭わなかった。翌10月26日、第77.4.2任務群の航空機は、レイテ島への輸送作戦から帰投中の軽巡洋艦鬼怒と駆逐艦浦波ビサヤン海で発見し、2隻とも撃沈した。サボ・アイランドは10月30日までレイテ沖で行動した後、マヌス島に帰投した。

11月19日、サボ・アイランドはマヌス島を出撃し、11月22日から27日までの間、他の護衛空母2隻とともにレイテ湾にいたる補給路の哨戒を行った。コッソル水道で補給の後、12月10日にはミンドロ島の戦いに向かった。サボ・アイランドは、12月15日に陸軍航空軍にその任務を委譲するまで上陸部隊支援と空中哨戒任務を行った。この間にも神風攻撃は止まらず、その影響でサボ・アイランドのマヌス島回航の出発日が12月17日まで延期された。

1945 編集

1945年1月1日、サボ・アイランドはリンガエン湾に向かう大艦隊に加わって出撃した。1月4日、艦隊はスールー海を航行中に神風攻撃を受け、オマニー・ベイ (USS Ommaney Bay, CVE-79) が特攻攻撃により沈没した。翌1月5日、サボ・アイランドも第十九金剛隊など陸海軍あわせて6隊の神風攻撃を受けたが、軽微な損害に留まった[3]。リンガエン湾上陸後、サボ・アイランドは1月17日から29日までミンダナオ島西岸部への攻撃を行い、1月29日と30日にはスービック湾近辺に対する上陸作戦の支援を行った。サボ・アイランドは航空機交換のためウルシー環礁に向かい、補給後は来る沖縄戦に備えた新しいパイロットの訓練のためにレイテ湾に移動した。

3月26日、サボ・アイランドは他の護衛空母2隻とともに、沖縄島上陸に先立って行われた慶良間諸島占領を支援。慶良間諸島は、沖縄戦全期間を通じて、アメリカ海軍の補給基地および前進根拠地として使用された。翌3月27日、サボ・アイランドの航空機は沖縄島に対する攻撃を行い、同時に対空哨戒と対潜哨戒も行った。4月7日から16日にかけては、沖縄東方海面で補給部隊に対する空中支援を提供し、4月27日には先島諸島に対して空襲を行った。4月29日、サボ・アイランドは沖縄の戦場を離れ、オーバーホールのためサンディエゴに向かった。

7月11日、オーバーホールを終えたサボ・アイランドは、真珠湾への輸送任務のためサンディエゴを出港し、任務終了後8月15日にアラメダ (カリフォルニア州)に到着。その日に戦争が終わった。戦争終了後の8月31日、サボ・アイランドは他の護衛空母6隻とともに本州北海道へのアメリカ軍の進駐を支援するため出港し、支援終了後9月25日に真珠湾に帰投した。その後、サボ・アイランドはマジック・カーペット作戦に参加し、サンフランシスコから進駐軍を輸送後、真珠湾、グアムおよび沖縄からの復員兵輸送に3回従事。サボ・アイランドは1946年1月14日にシアトルに到着してマジック・カーペット作戦の任務を終えた。サボ・アイランドは3月16日にマサチューセッツ州ボストンに到着、不活性化が行われ12月12日に退役、大西洋予備役艦隊入りする。その後、サボ・アイランドは1955年6月12日に CVHE-78(護衛ヘリ空母)に艦種変更され、1959年5月7日に AKV-28(貨物航空機運搬艦)に再び艦種変更された。1959年9月1日に除籍され、1960年2月29日にボストンでコマーケット社に売却後、6月に香港で解体された。

サボ・アイランドは第二次世界大戦の戦功での4つの従軍星章を受章した。さらに1944年9月6日から1945年4月29日にかけてのカロリン諸島フィリピン、沖縄戦での戦功で殊勲部隊章を受章した。

脚注 編集

  1. ^ 金子, 116ページ
  2. ^ 木俣, 585ページ
  3. ^ ウォーナー『ドキュメント神風 下』305ページ

参考文献 編集

  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0ISBN 4-7887-8218-9
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • 金子敏夫『神風特攻の記録 戦史の空白を埋める体当たり攻撃の真実』光人社NF文庫、2005年、ISBN 4-7698-2465-3

外部リンク 編集