サミュエル・フッド・リンゼー

サミュエル・フッド・リンゼー(Samuel Hood Linzee、1773年12月27日-1820年9月1日)はイギリス海軍提督である。フランス革命戦争ナポレオン戦争で活躍した。

サミュエル・フッド・リンゼー
Samuel Hood Linzee
サミュエル・フッド・リンゼー
生誕 1773年12月27日
デボン州プリマス
死没 1820年9月1日
デボン州ストーンハウス
所属組織 イギリス海軍
最終階級 青色中将
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人物 編集

リンゼーはデボン州プリマスに、ジョン・リンゼーとスザンナ・インマン夫妻の息子として生まれ、サミュエル・フッドに敬意を表してこの名前が付けられた。フッドは、父ジョンのいとこスザンナの夫だった。ジョンはイギリス海軍の艦長であり、アメリカ独立戦争時の1774年10月から1776年7月より後まで、スループファルコン英語版を指揮して、1775年バンカーヒルの戦いを目撃した。幼い息子サミュエルも、ファルコンの兵員名簿にキャプテンズ・サーバントそして先任書記として登録されたが、この当時にサミュエルが乗艦していたというのは現実性に乏しい。幼い頃から名簿に登録されていたため、海尉志願者は、目的を達するまでに、相当な年月を要することになった[注釈 1]。リンゼーはその後、1790年7月21日、わずか16歳半にして海尉に就任した[注釈 2]1793年11月5日には指揮官となり、1794年3月8日ポストキャプテン英語版となった[3]。このポストキャプテン就任は、20歳になって2か月後のことで、28門の6等級フリゲートネメシス英語版の指揮をまかされた[4]

1795年12月9日フランスのフリゲート艦センサブルとコルベット艦サルディーヌが、スミルナの中立海域に投錨していたネメシスを拿捕した。ネメシスそのものは抵抗しなかったが、リンゼーはこの行為の違法性に異議申し立てをした。イギリスエーグル英語版サイクロプス英語版がこの3隻を取り囲んだが、オノレ・ジョゼフ・アントワーヌ・ガントーム英語版の戦隊がやって来て2隻のイギリス艦を追い払った。1796年1月に、フランス軍はネメシスをチュニスに連行したが、3月9日にイギリス軍がネメシスを取り返した[3]。リンゼーはその後ベネチアウィーンドレスデンプラハそしてベルリンを回り、最終的にハンブルクからの定期船でイギリスに戻った[3]

 
コペンハーゲンの海戦で、砲撃を受けるデンマーク艦

1801年1月26日午前8時のことだった[3]。リンゼーは36門艦の指揮に就いたばかりだった[4]。この36門艦ワゾー(オイソー、かつてのフランス艦クレオパートル英語版)から視界に入ったのは、やはり36門のフランスのフリゲート艦デダニューズ英語版を発見した。このフリゲート艦は、特使の艦に同行してカイエンヌからロシュフォールに向かう途中であった。ワゾーは単独でデダニューズを追跡し、翌日の正午、フィニステレ岬が視界に入るようになった頃、2隻のイギリスのフリゲート艦シリウス英語版アメティスト英語版がこの追跡に加わった。結局デダニューズは、1月28日の2時45分ごろワゾーに降伏し、イギリス海軍の所有艦となった[3]

 
フィニステレ岬の海戦

1801年4月2日コペンハーゲンの海戦で、リンゼーは74門艦ゼラスの指揮を執った。この艦はジョージ・キャンベル英語版少将の艦隊に所属していた。この艦隊は翌1802年にイギリスからポート・ロイヤルまで公開し、その年の5月に帰国した[3]

その後1805年から翌1806年の4月まで、74門艦ウォーリアの指揮官を務めた[4]。この艦はロバート・カルダーの艦隊の1隻で、この時期、カルダーは仏西連合艦隊を相手に、フィニステレ岬の海戦を戦った。1805年7月22日のことだった[3]

1807年2月、74門艦マイダ英語版の指揮官となった。マイダの指揮官としての最初の任務には、3月6日に、軍法会議の委員の一員として、ホーム・リッグス・ポパム英語版南米侵略の失敗英語版の裁判に立ち会ったことも含まれていた。1807年7月19日、リンゼーはマイダを指揮してコペンハーゲン爆撃英語版を行い、デンマーク艦隊を拿捕した[3]

その後バーフラーの指揮官を、1809年の1月から2月までの短期間務め[5]、その後1811年までは、トライアンフを指揮した[4]ドレッドノート英語版の指揮も1810年8月から1811年12月まで務め[6]1812年3月にはテメレーア[6]、そして同年の4月から8月まではユニオン英語版に乗務したUnion(en)[4]。また、1811年7月20日には海兵隊大佐を委任された[3]。。

リンゼーは1812年8月12日に提督となって青色少将に昇進し、その後12月4日には白色少将1813年6月4日には赤色少将、そして1819年8月12日に最終階級の青色中将となった[3]

急逝 編集

1820年9月1日、リンゼーはデボンのストーンハウスの自宅で死去した。46歳だった。その数日前に脳卒中の発作によって落馬したのが原因だった。プリマスのセントアンドリュース教会の北側の通路に、彼の記念碑が建っている[3]

家族 編集

リンゼーはJ・クラークと南アフリカ喜望峰で、1799年7月に結婚した。しかし翌年の1800年、妻は出産中に死に、子供もその時に犠牲となった。1802年9月7日、エミリー・ウールリッジとグリニッジのセントアンドリュース教会で再婚し、9人の子供が生まれた。最初の3人はすべて男の子で死産だった。4人目は1806年8月に生まれた男の子で、サミュエル・フッド・リンゼーと名付けられたが、その年の12月26日に天然痘で死んだ。5人目は1807年9月27日に生まれた女の子で、エミリー・ウールリッジ・リンゼーと名付けられた。6人目は1809年12月19日生まれの男の子で、やはりサミュエル・フッド・リンゼーと名付けられたが、後に海軍に入って、1831年7月11日ウォースパイト英語版の海尉として就役中に、フリオ岬英語版の沖合で、22歳で溺死した。7人目は1812年9月22日生まれのジョン・リンゼー、8人目のスザンナ・インマン・リンゼーは1815年12月17日に生まれ、9人目で一番下のメアリー・アン・シャーロット・リンゼーは1818年1月26日に生まれた[3]

注釈 編集

  1. ^ まだ幼い息子の名を名簿に記載して、実際には乗艦させない例は規則違反ながらも行われていた[1]
  2. ^ 当時、海尉試験は20歳以上でないと受けられなかったが、実際には年齢を偽って、十代で受ける者も多かった[2]

脚注 編集

  1. ^ 小林幸雄著 『図説 イングランド海軍の歴史』 原書房、2007年、86頁。
  2. ^ 小林幸雄著 『図説 イングランド海軍の歴史』 原書房、2007年、87頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l Linzee, John William (1917年). “The Linzee family of Great Britain and the United States of America”. archive.org. 2011年5月4日閲覧。
  4. ^ a b c d e Winfield, Rif. British Warships in the Age of Sail 1714-1792 
  5. ^ Oxford Dictionary of National Biography. Oxford University Press 
  6. ^ a b Winfield, Rif. British Warships in the Age of Sail 1793-1817