シモイオ

モザンビークの都市

シモイオ(Chimoio)は、モザンビーク中部のマニカ州の州都。人口は約48万人(2023年)。ベイラからハラレへの鉄道の駅が有り、ジンバブエ国境から約95km離れている。標高は約750m。

シモイオ

Chimoio
Skyline of シモイオ
シモイオの位置(モザンビーク内)
シモイオ
シモイオ
南緯19度06分59秒 東経33度29分00秒 / 南緯19.11639度 東経33.48333度 / -19.11639; 33.48333
モザンビークの旗 モザンビーク
マニカ州
マニカ県英語版
市制 1969年
面積
 • 合計 174 km2
標高
664 m
人口
(2023年)推計値[1]
 • 合計 485,000人
ケッペンの気候区分 温暖湿潤気候(Cwa)

人口 編集

歴史 編集

アラブ人が金等を求めてモノモタパ王国と貿易を行った。

1572年ポルトガルフランシスコ・バレット英語版が初めてモノモタパ王国を威力偵察した。

1891年、ポルトガルが主に農業植民地を創る為に、モザンビーク会社英語版を設立した。

1893年2月24日、ポルトガル人が現在のシモイオの近くに、フランシスコ・バレットに因んでバレット村を建設した。 ベイラ港からの鉄道の終点であり、都市が発展した。

1897年末、鉄道がバレット村を経由してジンバブエに到達した。

1899年、モザンビーク会社は地区司令部をバレット村からシミアラに移転した。 この町は後にマンディゴスに改名された。

1910年、ポルトガル総督のJoão Pery de Lindがマンディゴスに訪れた。

1916年7月17日、マンディゴスはJoão Pery de Lindに因んでペリー村に改名された。

1920年、初めてのホテルであるペリー村ホテルが建設された。

1928年サッカーチームのG.D.R.テクスタフリカ英語版が設立した。

1944年、ポルトガル綿花会社が建設された。

1948年、初の小学校であるCaldas Xavier小学校が建設された。

1969年7月17日、ペリー村は市に昇格した。 同年、G.D.R. Textáfricaがモザンボーラ英語版で優勝した。 同年、ビンガ山に因んで高山(monte alto)映画館が建設された。

1974年モザンビーク独立戦争で、モザンビーク解放戦線がポルトガルにとって重要であるペリー村を砲撃した。 ペリー村は独立戦争で解放戦線に攻撃された唯一の大都市であった。 同年、ポルトガルでカーネーション革命が起こり、モザンビークは独立を認められた。

1975年1月12日、ペリー村はシモイオに改名された。

1977年5月30日モザンビーク内戦が始まり、シモイオは停滞した。 11月23日ローデシア紛争の中で、ローデシア軍がジンバブエ・アフリカ国民解放軍英語版に対して、ディンゴ作戦英語版を実行した。 この事件はシモイオの虐殺とも呼ばれている。

1992年10月4日、内戦が終了した。

2000年代のジンバブエの政治的・社会的危機の時には、シモイオは仕事を求める多くのジンバブエ人の目的地になった。

脚注 編集

  1. ^ Macro Trends”. 2023年4月18日閲覧。

座標: 南緯19度07分 東経33度27分 / 南緯19.117度 東経33.450度 / -19.117; 33.450 (Chimoio)