シャルル=ジュスト・ド・ボーヴォー=クラン

フランスの湿地( 1783 年)

シャルル=ジュスト・ド・ボーヴォーCharles-Juste de Beauvau, prince de Beauvau et prince de Craon, 1720年9月10日 リュネヴィル - 1793年5月21日 パリ)は、ブルボン朝末期フランスの貴族、軍人、政治家、学者。ボーヴォー公及びクラン公。陸軍元帥、軍事大臣。アカデミーフランセーズ会員。ボーヴォー元帥maréchal de Beauvau)の通称で呼ばれた。

ボーヴォー=クラン公シャルル=ジュスト、エリーズ・ブリュイエール英語版画、1834年制作、ヴェルサイユ宮殿美術館蔵

生涯 編集

ロレーヌ公レオポール及びフランツ父子の寵臣だったマルク・ド・ボーヴォー=クランと、レオポール公の妾だったアンヌ=マルグリット・ド・リニヴィル(1686年 - 1772年)の間の20人の子のうちの13番目として、ロレーヌ公国リュネヴィルのオテル・ド・クラン(Hôtel de Craon)で生まれた。父とは違ってフランス軍に入隊し、1738年12月10日騎兵中尉に任官。1740年5月1日ロレーヌ近衛連隊の連隊長(大佐)となり、ベル=イル公爵の麾下に入って、1742年のプラハ包囲戦で戦功を立てた。1746年5月16日旅団長となり、1748年5月10日陸軍少将に、1758年12月28日陸軍中尉に昇進。七年戦争中の1762年スペインのポルトガル侵攻英語版に援軍として参加し、再び軍功があった。

1747年6月12日ラングドック州知事となり、後にプロヴァンス州知事に転じた。1754年5月11日スペインのグランデ特権を、1757年1月1日にフランスの聖霊勲章英語版を受けた。姉のブーフレール侯爵夫人と同様に著名な文化人だったボーヴォーは、アカデミー・フランセーズに所属し、1771年から1793年まで座席番号28番を占めた。自身で啓蒙的なサロンを主催し、ジャーナリストのジャン・ドヴェーヌ英語版、哲学者ジャン=フランソワ・ド・サン=ランベール英語版及び甥で詩人のスタニスラ・ド・ブーフレール英語版などの人士を引き寄せた。

1783年陸軍元帥に昇叙された。1789年、半年間だけ軍事大臣を務めた。フランス革命前から改革派であったため、恐怖政治英語版下で貴族層への粛清が激化していたにもかかわらず、標的にならず自然死することができた。没地のオテル・ド・ボーヴォー(hôtel de Beauvau)は、ボーヴォー自身が1770年頃ニコラ・ル・カミュ・ド・メジエール英語版に設計・建造させたパリの私邸で、1861年にはフランス内務省が入った。サン=ジェルマン=アン=レーに所有していたもう一つの私邸デュ・ヴァル城(Château du Val)は、相続人によってベンジャミン・フランクリンへと売却された。男子がなく、公位は甥に引き継がれた。

子女 編集

生涯に2度結婚した。1745年4月3日ブイヨン公爵の末娘マリー=ソフィー=シャルロット(1729年 - 1763年)と結婚し、間に娘1人をもうけた。

最初の妻と死別後、1764年にマリー=ソフィー=シルヴィー・ド・ロアン=シャボー(1729年 - 1807年)と再婚したが、間に子は無かった。

参考文献 編集

  • Bouillet, Marie-Nicolas; Chassang, Alexis, eds. (1878). Dictionnaire Bouillet (in French)

外部リンク 編集