炤知麻立干(しょうち まりつかん、生年不詳 - 500年)は、新羅の第21代の王(在位:479年 - 500年)であり、姓は金。

炤知麻立干
各種表記
ハングル 소지 마립간
漢字 炤知麻立干
発音 ソジ・マリッカン
日本語読み: しょうち・まりつかん
ローマ字 Soji Maripgan
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世系

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先代の慈悲麻立干の長男であり、母は舒弗邯(1等官)の未斯欣の娘、王妃は伊伐飡(1等官)の金乃宿の娘の善兮夫人。479年2月に先王の死去に伴い、王位についた。『三国史記』新羅本紀・智証麻立干紀では照知王とも記される。また、『三国遺事』王暦では毗處麻立干と記され、慈悲麻立干の第三子とし、王妃を期宝葛文王の娘とする。

治世

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百済との同盟(羅済同盟)により、高句麗及び靺鞨への対抗の体制を維持した。主な交戦の記録としては、

  • 481年3月、高句麗・靺鞨が狐鳴(江原道金化郡)などの7城を奪い、さらに彌秩夫(慶尚北道浦項市)まで軍を進めてきた。このときは百済・伽耶の援軍を得て高句麗軍の侵入を防ぎ、退却したところを追撃し首級千余をあげた[1]
  • 484年7月に高句麗が侵入し、百済と協力して母山城(忠清北道鎮川郡?)付近で迎撃し、高句麗を退けた。
  • 489年9月、高句麗が侵入してきて戈峴城(江原道淮陽郡)まで至り、10月には狐山城[2]を陥落させられた。
  • 494年7月、将軍実竹らが薩水の河原(忠清北道槐山郡)で戦ったが、勝つことができなくて退却し、犬牙城(忠清北道槐山郡)を維持するに留まった。この後に高句麗兵に包囲されたが、百済の東城王が3千の兵とともに救援し、高句麗兵を退却させた。
  • 495年8月には、高句麗が百済に攻め入り雉壌城を包囲し、百済は新羅に対して救援を求めてきた。炤知麻立干は将軍徳智らを派遣し、高句麗兵を壊滅させた。
  • 496年7月、高句麗が侵入して牛山城を攻めたが、将軍実竹が高句麗兵を退けた。しかし翌497年8月に再び牛山城を攻められ、陥落させられた。

この間、493年に百済からは通婚を求められ、伊伐飡(1等官)[3]の比智の娘を百済東城王に送っている。

内政面では、2回の大赦(479年の即位直後、488年3月)と、被災者・寡婦・寡夫への施しを3回(480年10月、483年10月、488年2月)行っている。487年3月には領域内に郵駅を設置し、官道の修繕を命じるなど、国家としての地方統治が本格化した。また、490年3月以降のこととして、はじめて王都金城(慶州市)に市場を設け、新羅領域の各地から物産が集まったことを伝える。

488年1月には、居城を明活城(慶州市普門里)から月城に戻した。

倭との交戦

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  • 497年4月、倭軍(仁賢天皇御代)が新羅の領域を攻める[5]
  • 500年3月、倭軍(武烈天皇御代)が長嶺鎮を陥落[6]。同年11月、薨去[7]。在位22年。埋葬地は伝わらない。

補註

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  1. ^ ただし、この戦闘については『三国史記』では新羅本紀だけが伝え、高句麗本紀・百済本紀には対応する記事が見られない。
  2. ^ 詳細不明。前述の狐鳴城の異称とする説もある。(→井上訳注1980 p.85)
  3. ^ 『三国史記』百済本紀には、伊飡(2等官)と記されている。
  4. ^ 「(炤知麻立干)十五年秋七月、置臨海、長嶺二鎮、以備倭賊」(『三国史記(新羅本紀第三)』)
  5. ^ 「(炤知麻立干)十九年夏四月、倭人犯邉」(『三国史記(新羅本紀第三)』)
  6. ^ 「(炤知麻立干)二十二年春三月、倭人攻陷長峰鎮」(『三国史記(新羅本紀第三)』)
  7. ^ 三国史記』は「冬十一月、王薨(500年11月、王が薨去した)」とのみ記すが、実際には同年3月から始まった倭軍との戦争に関連して死亡した可能性が高い。

参考文献

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  • 一然 著、坪井九馬三日下寛 訳『三国遺事国立国会図書館〈文科大学史誌叢書〉、1904年。 
  • 金富軾 著、井上秀雄 訳『三国史記 第1巻』平凡社東洋文庫372〉、1980年。ISBN 4-582-80372-5