ジェームズ・セシル (第3代ソールズベリー伯爵)

第3代ソールズベリー伯爵ジェームズ・セシル英語: James Cecil, 3rd Earl of Salisbury KG PC1646年1683年5月24日)は、イングランド王国貴族、政治家。1660年から1668年までクランボーン子爵儀礼称号を使用した[1]

第3代ソールズベリー伯爵の紋章。

生涯 編集

クランボーン子爵チャールズ・セシルと妻ダイアナ(1623年ごろ – 1675年6月、初代ダールトン伯爵ジェームズ・マクスウェル英語版の娘)の息子として生まれた[1]。出生日は1646年3月27日以前とされる[1]。『ケンブリッジ大学同窓生名簿英語版』では「ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに通ったと言われている」と記載されているものの、入学日などの詳細はなかった[2]。『完全貴族要覧』は同書を引用しつつ、セント・ジョンズ・カレッジの入学者名簿に名前がないとし[1]、『オックスフォード英国人名事典』は「可能性があるものの、入学の証拠は不確か」とした[3]

1661年4月23日のチャールズ2世戴冠式でページ・オブ・オナー英語版を務めた[1]。1666年、第二次英蘭戦争で志願兵としてロイヤル・チャールズ号に乗船して参戦した[1]

1668年4月、ハートフォードシャー選挙区英語版の補欠選挙に立候補して、庶民院議員に当選した[4]。対立候補がイングランド国教会を熱烈に支持したこともあり、クランボーン子爵は国教忌避者であるクエーカーの支持を受けて当選した[4]。しかし、父が祖父に先立って1660年に死去した後、祖父が1668年12月3日に死去して、クランボーン子爵がソールズベリー伯爵位を継承したため[1]、補欠選挙で1,200ポンド近くを費やしたにもかかわらず、わずか8か月で貴族院に移籍してしまった[4]。庶民院ではCabalを支持した[5]

1669年10月21日に貴族院議員に就任した[6]。貴族院ではCabalの初代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーの政見に近く、野党ホイッグ党に属した[1][5]。たとえば、1674年2月に王弟ヨーク公ジェームズの子女にプロテスタント教育を受けさせる法案を提出し、1677年2月には第2代バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズの「騎士党議会英語版の閉会は違法である」という主張に賛成した[3]。チャールズ2世は激怒し、ソールズベリー伯爵はロンドン塔に投獄された[3]。ソールズベリー伯爵夫人マーガレットは夫が処刑されるだろうと信じていたが、子供が生まれそうになるとチャールズ2世はソールズベリーに一時帰宅を許し、7月にはソールズベリーがチャールズ2世と貴族院に謝って許された[3]

1679年1月3日に枢密顧問官に任命され、1月8日には初代スタッフォード子爵ウィリアム・ハワードによるカトリック陰謀事件への関与を調査する貴族の1人に任命された[1]。この任命は広く歓迎され、ソールズベリーは1680年8月31日にガーター勲章を授与されるに至った[5]。しかし、ホイッグ党の一員としてヨーク公ジェームズ王位から排除することに賛成したため、チャールズ2世の不興を買った[1][5]。1679年10月にもソールズベリーがヨーク公を冷遇する事件が起こった[3]。ヨーク公はスコットランドに向かう道中、ソールズベリーの邸宅に泊まることになったが、ソールズベリーはヨーク公の到着を予想して、わざと何の準備もさせずに出かけた[3]。ヨーク公は近くの村で食べ物やろうそくを調達するはめになり、出発するときに「宿代」として8シリングを残した[3]

1681年1月18日、チャールズ2世が王位排除法案を阻止すべく議会解散を検討し、それが枢密院で討議されているところ、ソールズベリーは反対した[3]。チャールズ2世がソールズベリーを強引に黙らせると、ソールズベリーは枢密院からの退出を求め、チャールズ2世は「これほど許可しやすい要求はないだろう」として許可を出し、ソールズベリーの名前を枢密顧問官のリストから削除するよう命じた[3]

1683年3月末より重病に陥り[1]初代エセックス伯爵アーサー・カペル英語版初代モンマス公爵ジェイムズ・スコットがハットフィールドへ見舞いに行った[3]。5月24日に死去、同月にハットフィールド英語版で埋葬された[3]。息子ジェームズが爵位を継承した[1]。ソールズベリー伯爵は年収12,200ポンド相当の領地があったものの、78,000ポンド以上の債務を残しており、その死でセシル家が財政難に陥った[5]

死後の1683年7月、ライハウス陰謀事件の審議において第3代エスクリックのハワード男爵ウィリアム・ハワード英語版がソールズベリーの陰謀関与を証言したが[1]、『オックスフォード英国人名事典』は病死の経緯からして、関与したとしてもほとんど陰謀の助けにならなかっただろうとした[3]

家族 編集

1661年9月25日、マーガレット・マナーズ英語版(1645年ごろ – 1682年、第8代ラトランド伯爵ジョン・マナーズ英語版の娘)と結婚[1][3]、5男5女をもうけた[7]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1949). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Rickerton to Sisonby) (英語). Vol. 11 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. pp. 407–408.
  2. ^ "Cecil, James. (CCL634J)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m Stater, Victor (23 September 2004). "Cecil, James, third earl of Salisbury". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/4976 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. ^ a b c Edwards, E. R.; Jaggar, Geoffrey (1983). "Hertfordshire". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年3月12日閲覧
  5. ^ a b c d e Edwards, E. R.; Jaggar, Geoffrey (1983). "CECIL, James, Visct. Cranborne (1646-83), of Hatfield, Herts.". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年3月12日閲覧
  6. ^ Henderson, Thomas Finlayson (1887). "Cecil, James (d.1683)" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 9. London: Smith, Elder & Co. p. 397.
  7. ^ a b c d e f g Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth Peter, eds. (1934). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, and Knightage (英語). Vol. 2 (92nd ed.). London: Burke's Peerage, Ltd. p. 2090.
  8. ^ Watson, Paula (2002). "CECIL, Hon. Robert (1670-1716), of St. Anne's, Westminster and King's Walden, Herts.". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年3月12日閲覧
  9. ^ Crossette, J. S. (1983). "FORESTER, William (1655-1718), of Dothill Park, Salop.". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年3月12日閲覧
  10. ^ Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1953). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Skelmersdale to Towton) (英語). Vol. 12.1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 267.
  11. ^ Cokayne, George Edward, ed. (1902). The Complete Baronetage (1625–1649) (英語). Vol. 2. Exeter: William Pollard & Co. p. 184.
  12. ^ Cruickshanks, Eveline; McGrath, Ivar (2002). "HOTHAM, Sir Charles, 4th Bt. (c.1663-1723), of Scorborough, nr. Beverley, Yorks.". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年3月12日閲覧
イングランド議会 (en
先代
サー・リチャード・フランクリン準男爵英語版
サー・ヘンリー・シーザー英語版
庶民院議員(ハートフォードシャー選挙区英語版選出)
1668年
同職:サー・リチャード・フランクリン準男爵英語版
次代
サー・リチャード・フランクリン準男爵英語版
ウィリアム・ヘイル英語版
イングランドの爵位
先代
ウィリアム・セシル
ソールズベリー伯爵
1668年 – 1683年
次代
ジェームズ・セシル