ジェフ・ブラバムGeoff Brabham1952年3月20日 - )は、オーストラリア人のレーシングドライバー。 父親は三度のF1チャンピオンを獲得したジャック・ブラバムである。

ジェフ・ブラバム

ジェフはアメリカで主なレースキャリアを築いている。活動の初期にはCARTで成功を収めた。インディ500には10回出場し、1983年には4位の成績を残している。

スポーツカーレース 編集

スポーツカーレースにおいて数々の成功を収めている。

カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ 編集

カナディアン-アメリカン・チャレンジカップでは1981年にチャンピオンを獲得した。

IMSA GTP 編集

1983年、IMSA GTPザクスピード・ルーシュチームのフォード・マスタングで参戦を開始。

1986年にはギャレスから参戦しているインディカーシリーズと並行して、IMSA-GTPに参戦するエレクトラモーティブと契約し、ニッサン・VGエンジンを搭載するGTP ZX-T(シャシーはローラ・T810)でエントリーした。20ポイントを挙げランキングは33位。最高位は3位。

1987年もエレクトラモーティブよりIMSA-GTP参戦。前年と同様のパッケージで臨み、26ポイントを挙げランキングは27位。1勝を挙げた。

1988年、エレクトラモーティブはT810をベースに独自のシャシーを製作した。ブラバムはGTP ZX-Tの名称を引き継いだこのマシンに乗り、12戦に参戦。8連勝を含む9勝を挙げ、ドライバーズタイトルを獲得した。

1989年も前年と同様のパッケージで参戦。この年はセブリング12時間、デイトナ24時間の両耐久レースにも参戦した。9勝を挙げ、2年連続のドライバーズチャンピオンを獲得するとともに、日産のメーカータイトル獲得にも貢献した。

1990年は前半戦までGTP ZX-Tで参戦し、中盤よりNPT-90に切り替えた。5勝を挙げ、3年連続のドライバーズチャンピオンとともにメーカータイトルも獲得した。

1991年はNPT-90などで参戦した。最終戦の前のレース、8月23日のロード・アメリカ300kmでは、予選前にタイヤトラブルに見舞われ、肋骨を4本骨折し、脊椎の3か所にひびが入る怪我を負った[1]。7週間後の10月13日に開催された最終戦デル・マー2時間では復帰し、3位でゴールする。シーズンを通して優勝は1勝のみであったが、上位入賞を続けて4年連続となるドライバーズタイトルを獲得した。また、3年連続のメーカータイトル獲得にも貢献した。

その他 編集

1981年は自身のレース活動に加えて、F1に参戦するブラバムBT49テストドライバーを担当した。

ル・マン24時間レースでは1993年に優勝し、1992年から1993年にかけてIROCのミシガン戦で2勝を挙げている。

1994年には、インディアナポリスで行われたNASCARのブリックヤード400に出走した。

インディカーレース 編集

1978年にアメリカに渡り、1981年よりCARTに参戦した。

最高位は2位(5回)、ランキング最高位は1982、1984、1987年の8位。

レース戦績 編集

CART ポイントランキング 編集

最高位 ポイント ランキング
1981年 9 14 5
1982年 3 110 8
1983年 4 13 21
1984年 2 87 8
1985年 2 41 15
1986年 3 64 12
1987年 2 90 8
1989年 14 0 39
1990年 19 0 41
1991年 20 0 44
1993年 26 0 50
1994年 - 0 -

インディ500 編集

シャシー エンジン スタート フィニッシュ チーム
1981年 ペンスキー コスワース 15 5 クラコ・レーシング
1982年 マーチ 20 28 ビッグノッティ-コッター・レーシング
1983年 ペンスキー 26 4 VDSレーシング
1984年 マーチ 8 33 クラコ・レーシング
1985年 9 19 ガレス・レーシング
1986年 ローラ 20 12
1987年 マーチ ジャッド 14 24
1989年 ペンスキー シボレー Wth ペンスキー・レーシング
1990年 ローラ ジャッド 19 19 トゥルースポーツ
1991年 トゥルースポーツ 22 20
1993年 ローラ ビュイック 29位 26 チーム・メナード
1994年 DNQ

スポーツカー 編集

IMSA GT選手権 編集

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位 ポイント
1983年 チーム・ザクスピード ラウシュ フォード・マスタング GTP GTP DAY MIA
12
SEB ATL
18
RIV LGA
5
CHA LIM MDO DAY BRA SNM POR MOS ROA
3
POC
8
DAY 38位 15
1984年 チーム・ザクスピード USA GTP DAY MIA SEB ATL RIV LGA CHA LIM MDO WGL POR SNM ROA POC MIS WGL DAY
30
NC 0
1986年 エレクトラモーティブ・レーシング 日産・GTP ZX-T GTP DAY MIA SEB ATL RIV
13
LGA CHA LIM MDO PLM WGL POR
3
SNM ROA
13
WGL COL
5
DAY 33位 20
1987年 GTP DAY MIA
1
SEB ATL RIV
10
LGA LIM MDO
8
PLM WGL POR
11
SNM ROA SAN COL
12
FAI
6
27位 26
1988年 GTP DAY MIA
8
SEB ATL
1
PLM
1
LIM
1
MDO
1
WGL
1
ROA
1
POR
1
SNM
1
SAN
8
COL
1
FAI
13
1位 186
1989年 GTP DAY
10
MIA
1
SEB
1
ATL
1
PLM
6
LIM
1
MDO
1
WGL
1
ROA
1
POR
2
TOP
1
SAN
8
SNM
1
TEM
6
FAI
2
1位 230
1990年 ニッサン・パフォーマンス・テクノロジー GTP DAY
9
MIA
1
SEB
2
ATL
13
PLM
1
TOP
2
LIM
4
WGL
5
1位 196
日産・NPT-90 MDO
1
SNM
2
POR
10
ROA
1
SAN
3
TEM
5
FAI
5
1991年 日産・R90CK GTP DAY
2
1位 175
日産・NPT-90 PLM
3
SEB
1
MIA
3
日産・NPT-91 ATL
11
TOP
5
LIM
3
MDO
5
NOR
2
WGL
2
LGA
2
POR
2
ROA
DNS
FAI
3
1992年 日産・R90CK GTP DAY
7
3位 132
日産・NPT-91 MIA
1
SEB
2
ATL
8
LIM
2
MDO
3
NOR
2
WGL
7
LGA
12
POR
6
ROA
3
PHX
3
FAI
2

ル・マン24時間レース 編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1989年   NISMO   チップ・ロビンソン
  アリー・ルイエンダイク
日産・R89C C1 250 DNF DNF
1990年   ニッサン・パフォーマンス・テクノロジー   チップ・ロビンソン
  デレック・デイリー
日産・R90CK C1 251 DNF DNF
1993年   プジョー・タルボ・スポール   エリック・エラリー
  クリストフ・ブシュ―
プジョー・905 Evo 1B C1 375 1位 1位

デイトナ24時間レース 編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1989年   エレクトラモーティブ・レーシング   チップ・ロビンソン
  アリー・ルイエンダイク
  マイケル・ロー
日産・GTP ZX-T GTP 453 DNF DNF
1990年   ニッサン・パフォーマンス・テクノロジー   ボブ・エール
  チップ・ロビンソン
  デレック・デイリー
GTP 360 DNF DNF
  ボブ・エール
  チップ・ロビンソン
  デレック・デイリー
327 DNF DNF
1991年   ボブ・エール
  チップ・ロビンソン
  デレック・デイリー
日産・R90CK LM 701 2位 1位
1992年   ボブ・エール
  チップ・ロビンソン
  アリー・ルイエンダイク
LM 272 DNF DNF
1993年   カニンガム・レーシング   デビッド・ローリング
  ドミニク・ドブソン
  トミー・リギンス
日産・300ZX ターボ GTS 332 DNF DNF
1994年   オート・トイ・ストア   アンディ・ウォレス
  モリス・シラジ
スパイス・SE89P-シボレー WSC 223 DNF DNF

家族 編集

ジェフには2人の弟、ゲイリーデビッドがおり、いずれもレーシングドライバーである。ゲイリーとは1991年のセブリング12時間でチームを組んで優勝している。デビッドとは1997年のバサースト1000にチームメートとしてBMWで参戦した。ジェフは兄弟の中ではレーサーとして最も成功したが、他の2人と異なりF1世界選手権に参戦する機会は無かった(ただし、ポール・リカール・サーキット1977年ブラバム・BT451981年にBT49のテストドライブを担当した経歴はある[2])。

ジェフは1990年代にオーストラリアのV8スーパーカーズ選手権にも参戦した。デビュー戦の1993年サンダウン500で優勝し、同シリーズで数少ないデビュー戦ウィナーの一人となった。

第一線を退いて以後は、BMWグループオーストラリアのアンバサダーとしてオーストラリア国内のイベントで安全運転のインストラクターを務めている。また、オーストラリアGPのサポートレースとしてBMWが支援して開催した著名人参加型レースイベントの参加者のために、サーキット走行をレクチャーするインストラクターを務めた。

息子マシューも父の後を追いレースの世界に入り、カートのドライバーとして成功を収めている。

受賞歴 編集

2004年、アメリカモータースポーツ殿堂入りを果たした。

脚注 編集

  1. ^ NEO 創刊号. 日産自動車株式会社 宣伝部. (1992-02-18). pp. pp.10-ff 
  2. ^ ブラバムがブラバムに乗る グランプリエクスプレス '89サンマリノGP号 28頁 1989年5月12日発行

外部リンク 編集

タイトル
先代
パトリック・タンベイ
カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ チャンピオン
1981
次代
アル・アンサーJr.
先代
デレック・ワーウィック
ヤニック・ダルマス
マーク・ブランデル
ル・マン24時間優勝者
1993 with:
クリストフ・ブシュー
エリック・エラリー
次代
ヤニック・ダルマス
ハーレイ・ヘイウッド
マウロ・バルディ
先代
クレイグ・ラウンズ
グレッグ・マーフィー
バサースト1000 優勝者
1997 with:
デビッド・ブラバム
次代
リカルド・リデル
ジム・リチャーズ