ジェラルド・パターソン

ジェラルド・パターソンGerald Patterson, 1895年12月17日 - 1967年6月13日)は、オーストラリアメルボルン出身の男子テニス選手。第1次世界大戦の終戦直後の時代に活躍し、ウィンブルドン選手権で2勝、全豪選手権で1勝を挙げた。オーストラリアの男子テニス選手としては、ノーマン・ブルックスに続く世代に位置している。

ジェラルド・パターソン
Gerald Patterson
ジェラルド・パターソン
基本情報
フルネーム Gerald Leighton Patterson
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 同・メルボルン
生年月日 (1895-12-17) 1895年12月17日
没年月日 (1967-06-13) 1967年6月13日(71歳没)
死没地 同・メルボルン
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 1989年
4大大会最高成績・シングルス
全豪 優勝(1927)
全仏 4回戦(1928)
全英 優勝(1919・22)
全米 ベスト4(1922・24)
優勝回数 3(豪1・英2)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 優勝(1914・22・25-17)
全英 準優勝(1922・28)
全米 優勝(1919)
優勝回数 6(豪5・米1)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全英 優勝(1920)
優勝回数 1(英1)

来歴 編集

1914年ウィンブルドン選手権ノーマン・ブルックスが優勝した後、間もなく第1次世界大戦が勃発し、同選手権も1915年から1918年まで開催中止を余儀なくされる。1919年、5年ぶりに再開されたウィンブルドン選手権で、パターソンは「チャレンジ・ラウンド」(挑戦者決定戦)を勝ち上がり、前回大会優勝者のブルックスと「オールカマーズ・ファイナル」を戦うことになった。第1次世界大戦の従軍から帰ってきたブルックスは、この時すでに41歳の高齢を迎えていた。当時23歳だったパターソンは、この18歳年上の大先輩に 6-3, 7-5, 6-2 のストレートで快勝し、オーストラリアの男子テニス選手として史上2人目のウィンブルドン優勝者になった。しかし、1920年度の「オールカマーズ・ファイナル」でパターソンはアメリカの大男ビル・チルデンに 6-2, 3-6, 2-6, 4-6 の逆転で敗れた。チルデンはその前に、「チャレンジ・ラウンド」の決勝戦で日本清水善造を 6-4, 6-4, 13-11 で破っている。現在とは大きく異なる競技方式の中で、パターソンはブルックスからウィンブルドンのタイトルを奪取したが、翌年チルデンに明け渡した。

この「チャレンジ・ラウンド」から「オールカマーズ・ファイナル」への流れで優勝を決定する方式は、ウィンブルドン選手権では1921年を最後に廃止され、1922年からすべての選手が1回戦からトーナメントを戦う現行の方式へと変更された。パターソンは1922年のウィンブルドン選手権で、イギリスランドルフ・ライセットを 6-3, 6-4, 6-2 で破って3年ぶり2度目の優勝を飾る。彼の活躍した時代は、テニス・トーナメントのシステムに抜本的な変化があった転換期であった。

1927年、ジェラルド・パターソンは地元の全豪選手権決勝でジョン・ホークスを 3-6, 6-4, 3-6, 18-16, 6-3 の激戦の末に破り、4大大会シングルス3勝目を獲得した。パターソンとホークスは、全豪選手権の男子ダブルスで1922年1926年・1927年の3度優勝している。パターソンは第4セットで、ホークスのマッチ・ポイント(このポイントを取れば勝利が決まる。決勝戦なので、ホークスの優勝が決まるポイント)を7本しのいで逆転した。

パターソンは男子テニス国別対抗戦・デビスカップオーストラリア代表選手としても、1919年から1928年まで活躍した。彼の時代には、ビル・チルデンビル・ジョンストンを中心にしたアメリカ・チームが1920年から1926年までデ杯7連覇を樹立し、パターソンはチルデンたちの壁を破ることができなかった。しかし、1924年1925年の2年連続でオーストラリアは「アメリカン・ゾーン」の決勝で日本チームを破り、パターソンは清水善造原田武一の挑戦を退けた。こうして、パターソンも日本テニス界の黎明期に大きな影響を与えた選手の1人となる。1928年のデ杯「ヨーロッパ・ゾーン」1回戦で、オーストラリアは格下のイタリアに「1勝4敗」で敗れ、パターソンもシングルス1試合とダブルス戦を落としてしまう。これを最後に、パターソンは競技テニスを退いた。

ジェラルド・パターソンは1967年6月13日、故郷のメルボルンで71歳の生涯を閉じた。1989年国際テニス殿堂入りを果たしている。

4大大会優勝 編集

  • 全豪選手権 男子シングルス:1勝(1927年)/男子ダブルス:5勝(1914年・1922年・1925年-1927年)
  • ウィンブルドン選手権 男子シングルス:2勝(1919年・1922年)/混合ダブルス:1勝(1920年)
  • 全米選手権 男子ダブルス:1勝(1919年)

参考文献 編集

  • Bruce Matthews, “Game, Set and Glory: A History of the Australian Tennis Championships” (ゲーム・セット・栄冠-オーストラリア・テニス選手権の歴史) The Five Mile Press, Victoria, Australia (1985) ISBN 0-86788-078-3
  • Our Open - 100 years of Australia's Grand Slam” (我らのオープン-オーストラリア・グランドスラムの100年史) News Custom Publishing, Victoria, Australia (2004) ISBN 1-876176-60-1
  • Lance Tingay, “100 Years of Wimbledon” (ウィンブルドンの100年史) Guinness Superlatives Ltd., London (1977) ISBN 0-900424-71-0
  • Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis” (コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3

外部リンク 編集