ジェームズ・ステプトー・ジョンストン

ジェームズ・ステプトー・ジョンストンJames S. Johnston、1843年6月9日 - 1924年11月4日)は、アメリカ人アメリカ連合国陸軍退役軍人、牧師、および教育者である。米国聖公会主教を務めただけでなく、テキサス州西部布教地区における最後の主教であり、テキサス州西部教区英語版における最初の主教である。またTMI聖公会学校英語版テキサス州サンアントニオの私立学校の創立者でもある。

尊師
ジェームズ・ステプトー・ジョンストン
名誉神学博士
米国聖公会テキサス州西部教区主教英語版
ジョンストン主教
教会 米国聖公会
教区 米国聖公会テキサス州西部教区
着座 1888年
離任 1916年
前任 ロバート・W・B・エリオット
後任 ウィリアム・テオドトス・ケーパース
聖職
叙階/叙聖 1869年12月22日
by ウィリアム・マーサー・グリーン英語版 
司祭叙任 1871年4月30日
by ウィリアム・マーサ―・グリーン
主教叙任 1888年1月6日
by リチャード・フッカー・ウィルメル英語版
個人情報
出生 (1843-06-09) 1843年6月9日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミシシッピ州チャーチ・ヒル英語版
死去 1924年11月4日(1924-11-04)(81歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
テキサス州サンアントニオ
墓所 伝道師埋葬地区の南側
国籍 アメリカ人
両親 ジェイムス・ステプトー・ジョンストン(父)
ルイーザ・クラリッサ・ブリッジズ・ニューマン(母)
配偶者
メアリー・マーサ―・グリーン (m. 1865)
子供 6人
出身校 バージニア大学
署名 ジェームズ・ステプトー・ジョンストンの署名
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経歴 編集

若年期 編集

1843年、ジェームズ・ステプトー・ジョンストンはアメリカ合衆国のミシシッピ州ジェファーソン郡チャーチ・ヒル英語版で、地元の弁護士・綿花栽培者のジェイムス・ステプトー・ジョンストンとその妻であるルイーザ・クラリッサ・ブリッジズ・ニューマンの息子として生まれた[1]。彼はミシシッピ州ロドニー英語版近くのオークランド大学で教育を受け[1]バージニア州シャーロッツビルにあるバージニア大学に通った。しかし、アメリカ連合国陸軍に入隊するために1年で退学した。カレッジ在学中、彼はデルタ・プサイ英語版友愛会(別名:セント・アンソニー・ホール)の会員であった。1862年には北バージニア軍騎兵隊英語版中尉に任命された。連合国陸軍の捕虜となり戦争囚人として1年間を過ごすことになる前、第二次ブルランの戦いアンティータムの戦いでの戦闘を目撃した。戦闘終了後、1年間法律を勉強して1867年まで弁護士に従事し、それからは聖職者に向けての勉強を始めた。1869年12月22日にミシシッピ州ヴィックスバーグにあるキリスト教教会の助祭、1871年4月30日にはミシシッピ州ナチェズにあるトリニティ教会の聖職者としてミシシッピ州教区のウィリアム・マーサー・グリーン英語版主教によって叙階された。1870年から1876年までミシシッピ州ポート・ギブソン英語版にあるセント・ジェームズ教会の主任司祭を務めた後、1876年から1880年までケンタッキー州マウントスターリング英語版にあるマウントスターリングの主の昇天教会の主任司祭を務めた。1887年、テキサス州西部宣教師地区の第2代主教に選出され、同じ年にユニバーシティ・オブ・ザ・サウス英語版から名誉神学博士の称号を授与された[2][3]

職歴 編集

主教としての青年時代は困難を極めた。約100,000平方マイル (260,000 km2)の広さがある地域でのたった一人の司祭であり、地域の大半は馬か馬車に乗ってでしか行くことができない場所であった。また、この地域は長期に渡る干ばつで厳しい経済的困難に陥っていた。そのような環境での知識人の必要性を特に強調し、経済的困難を終わらせるためにこの地域に住む若者向けの古典文学およびキリスト教教育を提供するテキサス州西部男子校(現在のTMI聖公会学校)を創立した。ジョンストンはアメリカ合衆国東海岸に住む富裕層の聖公会会員から創立のための資金を集めた。

また、ジョンストンは地域の統合を行う責任者でもあり、前もってメソジスト派教会に入会していたアフリカ系アメリカ人信徒の加入を認めた。穏健なリベラル派でありながら、オックスフォード運動の影響を受けたジョンストンはカトリック教会(テキサス州南部と西部内で信徒数が圧倒的に多い宗教団体)との意見交換に取り組み、キリスト教の統一化への願望を伝えようとローマ教皇庁にその理由を記した手紙を送った。1904年、テキサス州西部は独立教区となり、ジョンストンを最初の主教として迎え入れた。1916年にその座を退き、ジョンストンは28年間に及ぶ主教としての務めを終えた。

編集

1924年11月4日、サンアントニオにある自宅にて没した[4]

関連項目 編集

脚注 編集