セミョーン・スニトコフスキー
セミョーン・イサエヴィチ・スニトコフスキー(ロシア語: Семён Исаевич Снитковский, ラテン文字転写例:Semyon Isaevich Snitkovsky, 1933年8月9日 - 1981年4月4日)は、ソビエト連邦出身のヴァイオリン奏者。[1][2]
セミョーン・イサーエヴィチ・スニトコフスキー | |
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生誕 | 1933年8月9日 |
出身地 | ソビエト連邦オデッサ |
死没 | 1981年4月4日(47歳没) |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ヴァイオリニスト |
担当楽器 | ヴァイオリン |
経歴 編集
オデッサの生まれ。1940年にピョートル・ストリャルスキーの音楽学校に入ってヴァイオリンを学ぶが、ほどなくして第二次世界大戦のために学業の中断を余儀なくされる。1946年にベニヤミニ・モルドコヴィチにヴァイオリンを学んだ。1949年にはソロ・コンサートを開くまでになり、1951年にオデッサ音楽院に入学してモルドコヴィチのクラスで研鑽を続けた。音楽院在学中からオデッサ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に出演して経験を積み、1956年にはリヴィウ・フィルハーモニー管弦楽団のソリスト及びリヴィウ音楽院のヴァイオリン科講師に就任した。しかし、1957年にはモスクワ音楽院に入学し、ダヴィッド・オイストラフの薫陶を受け、すぐにオイストラフの助手に任命された。また同じ年に全ソ連音楽コンクールに入賞し、モスクワで開かれた世界青年学生祭典のコンクールで第三位となった。1958年にはブカレストのジョルジェ・エネスク国際音楽コンクールのヴァイオリン部門でシュテファン・ルハと第一位を分け合い、1963年のエリザベート王妃国際音楽コンクールで二位入賞を果たした。1976年にはモスクワ音楽院の教授に昇格し、フランツ・リスト音楽院の教授も兼任した。またドイツ、スイスやフランスなど各地でマスター・クラスを開き、熱心に後進の指導に当たっていた。
モスクワにて没。