ダキーキーペルシア語: ابو منصور محمد بن احمد دقیقی‎、Abu Mansur Muhammad Ibn Ahmad Daqiqi Tusi、? - 976年?)は、10世紀ペルシア詩人10世紀ペルシア文学世界においてルーダキーに次ぐ詩人とされている[1]。本名はアブー・マンスール・ムハンマド・イブン・アフマドで、単にダキーキーペルシア語: دقیقی‎、Daqiqi/Dakiki/Daghighi)と書かれる[2]

ダキーキーはイラントゥースで誕生したと考えられている[1][2][3]。トゥースのほか、アフガニスタンバルフウズベキスタンサマルカンドブハラトルクメニスタンメルヴがダキーキーの出身地として挙げられている[3]

ダキーキーの生年は930年から940年の間と推定され[1]932年以後に生まれたと考えられている[3]

若年時にイラン・中央アジアを支配していたサーマーン朝に従属するチャガーニヤーンの地方領主に宮廷詩人として出仕し、その後サーマーン朝の宮廷に 召しだされてマンスール1世ヌーフ2世英語版に仕えた。ヌーフ2世の命令を受け、ダキーキーはペルシアの民族叙事詩の制作に着手する[1]

ダキーキーの作品として、自然、愛、ワインなどをテーマとする350句ほどの詩が残されている[3]。しかし、ダキーキーの名前を文学史にとどめたのはそれらの詩ではなく、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ(王書)』に先行する民族叙事詩の制作事業だった[1][3]。ダキーキーの民族叙事詩はかつてアブー・マンスールが著した散文に基づいており、ムタカーリブの韻律が採用されていた[1]。ダキーキーによる『シャー・ナーメ』はグシュタースプドイツ語版の即位、ザラスシュトラ(ゾロアスター)の出現、グシュタースプの改宗、アルジャースプとの戦闘までが、およそ1,000の詩で語られている[1]。イスラーム風の名前を持つにもかかわらずダキーキーをゾロアスター教徒と見なす説があるが[2][3]、この説には多くの疑問が呈されている[2]。フェルドウスィーは『シャー・ナーメ』の序文でダキーキーについて詩を詠み、グシュタースプの治世の段でダキーキーの夢を見たと述べた[1]

約1,000の句を書き終えた頃、ダキーキーは寵愛していた奴隷に刺殺される[2]975年から977年にかけての時期でヌーフ2世がダキーキーに命令を下し、977年にフェルドウスィーが『シャー・ナーメ』の執筆に取り掛かったことから、976年頃にダキーキーは殺害されたと推定されている[3]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h 黒柳『ペルシア文芸思潮』、29-30頁
  2. ^ a b c d e 蒲生「ダキーキー」『アジア歴史事典』6巻、89頁
  3. ^ a b c d e f g DAQĪQĪ, ABŪ MANṢŪR AḤMAD](Encyclopædia Iranica)

参考文献 編集