ダダイスム: Dadaïsme)は、1910年代半ば[1]に起こった芸術思想・芸術運動のことである。ダダイズムダダ主義[2]あるいは単にダダとも呼ばれる。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされたニヒリズムを根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする。ダダイスムに属する芸術家たちをダダイストとよぶ。

1920年ベルリンダダがブルヒャルト画廊で「大ダダ見本市」開催

歴史 編集

ダダイスムの流れは、第一次世界大戦の1910年代半ばに、ヨーロッパのいくつかの地方やニューヨークなどで、同時多発的かつ相互影響を受けながら発生した(初期ダダ)。

 
キャバレー・ヴォルテールでキュビスム風の格好をしたフーゴ・バル(1916年)

「ダダ」という名称は1916年トリスタン・ツァラが命名したため(辞典から適当に見つけた単語だったとも言われる)、この命名をダダの始まりとすることもある(ダダ宣言英語版)。ツァラなどによってチューリッヒで行われた、特にチューリッヒ・ダダと言われる運動は、キャバレー・ヴォルテール(Spiegelgasse 1番地に往時の様子を偲ぶことができる)を活動拠点として参加者を選ばない煽動運動的要素も孕んでいた。1918年チューリッヒでツァラにより第2宣言がなされる。未来派はさまざまな芸術家による反応によって発展し、ダダはこれらの流れを組み合わせた[3]

同様の活動は各大都市ごとにあったが(→主要都市におけるダダ)、1919年にツァラはアンドレ・ブルトンに招聘されてパリに活動の場を移した(パリ・ダダ)。その後1922年頃にツァラとブルトンとの対立が先鋭化し、1924年にはダダから離脱したブルトン派によるシュルレアリスムの開始(シュルレアリスム宣言)と前後してダダイスムは勢いを失った。数年後にツァラとブルトンは和解し、ツァラはシュルレアリスムに合流した。1945年頃、シュルレアリスムも終息した。

スイス・スタイル 編集

戦後の復興期に、スイスでは4カ国語(ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語)が併記される事情から、1950年代に入るとスイス・スタイル等の発展が始まり、ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンポール・ランドが登場して、スイスは再びデザインの中心地に戻ってきた。これらの活動では、コーポレートアイデンティティなどの表現がみられる。1965年アーミン・ホフマンエミール・ルーダーバーゼル造形学校ドイツ語版英語版に教室を設立、約30年間(1968年 - 1999年)にわたって教育を行なった。

ネオダダ 編集

アメリカでは、ダダの流れを汲むニューヨーク・ダダニュー・バウハウスなどの土壌があったが、1960年代にダダイスム運動が復興し、ネオダダと呼ばれ、「反芸術」運動として隆盛した。のちのポップアートやコンクレーティズム(日本では具体派)、コンセプチュアリズムなどへ分岐していった。この意味で第二次世界大戦以後の現代美術の震源地となったといえる。

主要都市におけるダダ 編集

写真・映画 編集

ダダイスムに立脚した写真表現も存在する。第一次大戦と続く第二次大戦を通じて形成された虚無感を背景に、常識や秩序に対する否定や破壊といった感覚を表現の基調とする。

ダダと呼べるような写真作品を残している代表的な写真家美術家に、マン・レイクリスチャン・シャドマックス・エルンストジョン・ハートフィールドクルト・シュヴィッタースハンナ・ヘッヒラウル・ハウスマン北園克衛などが挙げられる。

ダダに特に多い写真表現としては、フォトモンタージュがある。単に写真を切り貼りしたというコラージュというような作品から、より緻密に1枚の作品に仕上げているものまであり、後者の作品は、シュルレアリスムの写真へもつながっていく。複数の写真を組み合わせることにより、比較的に容易に意外性を生じさせたり社会風刺ができるところに、ダダイストたちがフォトモンタージュを好んだ理由の一つがあると推測される。ドイツの画家ハンス・リヒターは、1910年代半ばから1920年代にかけて、ダダイスム映画作品も手がけている。

日本におけるダダ 編集

1920年大正9年)『万朝報』8月15日号に記事「ダダイスム一面観」が掲載される[4]高橋新吉1921年(大正10年)11月に辻潤宅を訪問し、ダダについて辻に教示し、辻はダダイストを名乗るようになる[5]1922年(大正11年)12月『ダダイズム』を 吉行エイスケが発刊[6]。翌1923年(大正12年)1月には萩原恭次郎壺井繁治岡本潤川崎長太郎らが『赤と黒』を創刊。同年2月には 高橋が「DADAは一切を断言し否定する」との一文から始まる詩集『ダダイスト新吉の詩』(中央美術社)を発表する(編集は辻が担当した)[7]。同年7月には村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助らが「MAVO」を結成し、翌年6月には『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』が玉村善之助橋本健吉野川隆らによって創刊される。日本では1922年(大正11年)から1926年(大正15年)がダダ運動のピークとなった。以降も、ダダイスムは中原中也坂口安吾宮沢賢治など広範にわたって影響を与えた[8]

戦後は、1960年代ネオダダを標榜して高松次郎赤瀬川原平中西夏之らによるハイレッド・センターが「東京ミキサー計画」などのハプニングイベントを遂行した(→ネオ・ダダイスム・オルガナイザーズ)。なお、『ウルトラマン』に登場した三面怪人ダダのネーミングは、ダダイスムに由来するという。同作には、ブルトンにちなむ「ブルトン」の名を持つ怪獣も登場している。

主な芸術家 編集

脚注 編集

  1. ^ Mario de Micheli (2006). Las vanguardias artísticas del siglo XX. Alianza Forma. p.135-137
  2. ^ 川路, 柳虹 (1979). “ダダ主義とは何か (日本のダダイズム(一九二〇-一九二二)(資料))”. Reports on cultural science (16): p7–11. https://ci.nii.ac.jp/naid/40003540963. 
  3. ^ Joan M. Marter, The Grove Encyclopedia of American Art, Volume 1, Oxford University Press, 2011 Archived 2020-02-09 at the Wayback Machine., p. 6, ISBN 0195335791
  4. ^ a b 池田誠「風博士におけるナンセンスとダダとの関係」武蔵大学人文学会雑誌32巻1号(2006)
  5. ^ 辻潤年譜
  6. ^ 吉行和子「吉行エイスケ 作品と世界」国書刊行会,1997年、吉行淳之介『詩とダダと私と』作品社、1997年
  7. ^ 高橋新吉
  8. ^ 日本においてダダはシュルレアリスムよりもインパクトが強かったため、ヨーロッパにおけるようなダダからシュルレアリスムへの芸術運動のシフトが行われずに、強い影響力を持った。

関連項目 編集

外部リンク 編集