チェディ・ベレット・ジェーガン英語: Cheddi Berret Jagan, 1918年3月22日 - 1997年3月6日)はガイアナの政治家。イギリス統治下時代に首相(1953年、1961年-1964年)、独立後に大統領(1992年-1997年)を務めた。後半生にかけては、マルクス・レーニン主義を捨てて、国を自由市場資本主義にしようとした。

チェディ・ジェーガン
Cheddi Jagan


任期 1992年10月9日1997年3月6日
首相 サミュエル・ハインズ

任期 1961年9月5日1964年12月12日

任期 1953年5月30日10月9日

出生 (1918-03-22) 1918年3月22日
イギリス領ギアナポート・モーラント
死去 (1997-03-06) 1997年3月6日(78歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ワシントンD.C.
政党 人民進歩党英語版
配偶者 ジャネット・ジェーガン
署名

経歴 編集

インド系(en:Cheddi Jaganより)で砂糖プランテーションの労働者の息子として生まれ、ジョージタウンのクイーンズカレッジに通った。後にワシントンD.C.ハワード大学で歯科医学を学び、1940年代初期に故郷に戻る前に、シカゴノースウェスタン大学 で学んだ。ガイアナの状況を憂慮し、1950年には、フォーブス・バーナム人民進歩党英語版People's Progressive Party, PPP)を結成。1947年に植民地の立法機関に選出され、1950年後半から1960年代初期にかけての、ガイアナ政府の議論を呼んだ指導者だった。

ジェーガンは1953年の植民地管理選挙で勝ったが、イギリス軍によって排除された。彼がソビエト連邦との結びつきを明言していたため、アメリカ合衆国アメリカ中央情報局の強力な影の圧力が影響した。 この133日後に首相を辞任した。1954年から1957年までジェーガンの運動はジョージタウンのみに制限された。

ジェーガンは、ますます権威主義的になるバーナムとのつながりを断ち、労働問題の活動家と野党党首として政府で活動した。1992年、28年間の野党活動の後、独立以来の最初の自由選挙で大統領に選出され、組合運動の復活と、教育とインフラの改良に熱心に取り組んだが、在任5年も経たずに死去した。

外部リンク 編集

公職
先代
デスモンド・ホイト
  ガイアナ共和国大統領
第4代: 1992年 - 1997年
次代
サミュエル・ハインズ