チャウルチ(モンゴル語: Ča'urči,? - ?)とは、モンゴル帝国に仕えたカルルク部出身の武将の一人。『元史』における漢字表記は抄児赤(chāoérchì)で、南宋の捕虜となっていた時代につけられた沙全という漢名でも知られる。

概要

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チャウルチの父シャーディー(沙的)は元来中央アジアに住まうカルルク部の出身であったが、モンゴル帝国に仕えるようになって元々の住居を離れ東アジア方面に移住した。チンギス・カンの金朝遠征時には南柳泉を守るよう命じられ、以後シャーディーの家系はこの地を本拠地とするようになった。シャーディーの息子チャウルチは5歳の時に南宋軍の捕虜となり、18歳にして南宋の将軍劉整の幕下に入ることになった。南宋の人々はチャウルチの父の名前(沙的)から沙を姓とし、また全という名を与え、チャウルチを沙全という姓名で呼んだ[1]

1261年(中統2年)に劉整は瀘州とともにモンゴルに投降し、チャウルチもこれに同行した。これを察知した南宋は軍を派道したがチャウルチの力戦によって劉整らは無事モンゴル側に逃れ、チャウルチはモンゴルにおいて管軍百戸に任じられた。これ以後、チャウルチは劉整の配下で南宋軍との戦いに従事するようになり、1266年(至元3年)には雲頂山にて南宋の将軍夏貴の軍勢を破った。1268年(至元5年)からは南宋の要衝たる襄陽の包囲戦(襄陽・樊城の戦い)に参加し、劉整の命によってチャウルチは仙人山・陳家洞といった周辺の南宋軍の拠点を攻略し、千人隊長に昇格となった。その後、樊城が陥落するとチャウルチは再び劉整と合流し、淮河を渡った先で南宋の陳安撫と戦いこれを破った[2]

1275年(至元12年)に襄陽が陥落しバヤンを総司令とする南宋全面侵攻が始まると、チャウルチはアジュの率いる軍団に所属し淮東一帯に侵攻した。アジュ軍は張世傑孫虎臣率いる南宋の軍団と焦山にて激突したが、水陸両面から進行するモンゴル軍を南宋軍は防ぎきれず敗走し、この戦いでチャウルチは敵の将士33人を捕虜にする功績を挙げた。その後は常州攻めに加わってこれを攻略し、さらに勝利に乗じて沿海の諸城も下した。最終的には華亭にまで進出し、華亭軍民ダルガチに任じられた。

その後、華亭県が昇格して松江府となると、チャウルチはそのダルガチに任じられた。この頃、盗賊が数多く発生し、多い時には数千人を数えたが、チャウルチは武力で討伐せず悉く招来し境内を安定させたという。そのため松江万戸府ダルガチに改められ、軍政にも携わるようになった。1285年(至元22年)にはクビライに召喚され、隆興万戸府ダルガチに任じられた。クビライは松江を沿岸の重要地帯であるとして引き続きチャウルチに駐屯させたが、それからほどなくして任官したまま亡くなった[3]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻132列伝19沙全伝,「沙全、哈剌魯氏。父沙的、世居沙漠、従太祖平金、戍河南柳泉、家焉。全初名抄児赤、甫五歳、為宋軍所虜、年十八、留劉整幕下、宋人以其父名沙的、使以沙為姓、而名曰全。全久居宋、険固備知之」
  2. ^ 『元史』巻132列伝19沙全伝,「中統二年、整以瀘州来帰、全与之同行、宋軍追之、全力戦得脱、授管軍百戸。至元三年、整出兵雲頂山、与宋将夏貴兵遇、全撃殺甚衆。五年、命整領都元帥事、出師囲襄樊、以全為鎮撫。整遣全率軍攻仙人山・陳家洞諸寨、破之、陞千戸、賜銀符。敗宋将張貴、抜樊城、与劉整軍会。修正陽城、引兵渡淮、与宋将陳安撫戦、敗之」
  3. ^ 『元史』巻132列伝19沙全伝,「十二年、従丞相阿朮与宋将張世傑・孫虎臣大戦于焦山、水陸並進、宋人不能支、尽棄鼓旗走、獲其将士三十三人。従攻常州、克之、乗勝下沿海諸城。至華亭、戒士卒毋殺掠、遂傾城出降、以功授華亭軍民達魯花赤。時民心未定、有未附塩徒聚衆数万掠華亭、全撃破之、籍其名得六千人、請于行省、遣屯田于淮之芍陂。行省以邑人新附、時有叛側、委万戸忽都忽等体察、欲屠其城、全言『塩卒多非其土人、若屠之、枉死者衆』。以死保其不叛、遂止。賜金符、加武略将軍、兼領塩場、職如旧。尋陞華亭為府、以全為達魯花赤、賜虎符。時盗賊蜂起、其最盛者有衆数千人、全悉招来之、境内得安。改松江万戸府達魯花赤、始専領軍政。二十二年、召見、遷隆興万戸府達魯花赤、得請、復旧名曰抄児赤。未幾、帝以為松江瀕海重地、復命鎮之、賜三珠虎符、卒于官」

参考文献

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  • 堤一昭「元朝江南行台の成立」『東洋史研究』第54巻4号、1996年
  • 堤一昭「大元ウルスの江南駐屯軍」『大阪外国語大学論集』第19号、1998年
  • 堤一昭「大元ウルス江南統治首脳の二家系」『大阪外国語大学論集』第22号、2000年
  • 元史』巻132列伝19