チャールズ・チェットウィンド=タルボット (第2代タルボット伯爵)

第2代タルボット伯爵チャールズ・チェットウィンド・チェットウィンド=タルボット英語: Charles Chetwynd Chetwynd-Talbot, 2nd Earl Talbot KG PC FRS、出生名チャールズ・チェットウィンド・タルボットCharles Chetwynd Talbot)、1777年4月25日1849年1月10日)は、イギリスの政治家、貴族。1817年から1821年までアイルランド総督を務めた。

第2代タルボット伯爵の肖像画。メゾチント版画、1844年。

1783年から1793年までインガスター子爵儀礼称号を使用した[1]

生涯 編集

ジョン・タルボット閣下(1782年にタルボット男爵位を継承、1784年にタルボット伯爵に叙爵)とシャーロット・ヒル(Charlotte Hill、1754年5月15日 – 1804年1月17日、初代ダウンシャー侯爵ウィルズ・ヒルの娘)の息子として、1777年4月25日に生まれた[1]。1786年4月19日に父が国王の認可状を得て「チェットウィンド」を姓に加え[1]、インガスター子爵も同様にチェットウィンドを姓に加えた。1793年5月19日に父が死去すると、タルボット伯爵位を継承した[1]。1794年10月11日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1797年6月28日にM.A.の学位を修得した[2]

大学を卒業した後、在ロシア特命全権大使英語版チャールズ・ウィットワース英語版の随行員としてロシアで勤務、1800年頃に帰国した[3]。以降ウィットワースとは生涯にわたって友人であり続けた[3]ナポレオンによるイギリス侵攻計画英語版が噂された1803年にはスタッフォードシャーで志願兵部隊を編成した[3]。1812年8月にスタッフォードシャー統監英語版[3]、1828年1月5日にスタッフォードシャー首席治安判事英語版に任命され、いずれも1849年1月10日に死去するまで務めた[4]。1828年のスタッフォードシャー首席治安判事任命により、全ての首席治安判事が統監による兼任となった[4]

1813年5月6日、王立協会フェローに選出された[5]。同1813年5月にロンドン考古協会フェローにも選出されている[6]

1817年10月9日にアイルランド総督に任命され[3]、同年に枢密顧問官に任命されたが[1]、1818年まではアイルランド担当大臣英語版第2代準男爵サー・ロバート・ピールが代わりにアイルランドを統治した[3]。ピールとタルボット伯爵は同じくカトリック解放に反対したためか、友好的な関係を維持したが、ピールの後任であるチャールズ・グラント英語版は経験不足である上カトリック解放を支持しており、アイルランド政策をめぐってタルボットと衝突を起こした[6]。1820年にダブリン選挙区英語版で行われた補欠選挙に至ってはタルボット伯爵とアイルランド担当政務次官英語版のウィリアム・グレゴリー(William Gregory)がトマス・エリス英語版を、グラントがヘンリー・グラタン英語版を支持するという不一致を起こした[6]。アイルランド総督の在任中にアイルランドにおける農業の発展に貢献したほか、1821年8月に国王ジョージ4世がアイルランドを訪問、その直前の1821年7月19日に聖パトリック勲章を授与された[1][6]アイルランド貴族以外の人物が聖パトリック勲章を授与されたのは第2代タルボット伯爵が最初であり、2人目は30年後に授与された第2代ケンブリッジ公爵ジョージだった[1]カトリック解放には反対したが、ダニエル・オコンネルはタルボット伯爵が公正に行動したと評価、第2代クロンカリー男爵ヴァレンタイン・ローレス英語版もタルボット伯爵を賞賛した[3]。1821年12月に首相の第2代リヴァプール伯爵ロバート・ジェンキンソンにより更迭され[7]初代ウェルズリー侯爵リチャード・ウェルズリーが後任となった[3]。アイルランドを去った後もピールとグレゴリーとの文通を続け、2人もスタッフォードシャーにあるタルボット伯爵の領地を度々訪れたという[6]

1833年にオックスフォード大学総長英語版選挙への出馬を打診されたが、辞退して初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーを支持した[7]

第2次ピール内閣英語版への支持が評価され、1844年にガーター勲章授与を打診された[1][7]。これにより同年10月11日に聖パトリック騎士団から辞任、12月12日にガーター勲章を授与された[1]。その後、穀物法廃止を支持した[7]

1849年1月13日にインガスター・ホール英語版で死去[1]インガスター英語版の教会で埋葬された[5]。息子ヘンリー・ジョン英語版が爵位を継承した[1]

家族 編集

1800年8月28日、フランシス・トマサイン・ランバート(Frances Thomasine Lambart、1782年7月11日 – 1819年12月30日、チャールズ・ランバートの娘)と結婚、9男2女をもうけた[8]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Cokayne, George Edward, ed. (1896). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T) (英語). Vol. 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 362–363.
  2. ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (S to Z) (英語). Vol. 4. Oxford: University of Oxford. p. 1384.
  3. ^ a b c d e f g h Carlyle, Edward Irving (1898). "Talbot, Charles Chetwynd" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 55. London: Smith, Elder & Co. pp. 308–309.
  4. ^ a b Sainty, John Christopher (November 2002). "Custodes Rotulorum 1660-1828". Institute of Historical Research (英語). 2019年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月21日閲覧
  5. ^ a b "Talbot; Charles Chetwynd (1777 - 1849); 2nd Earl Talbot of Hensol". Record (英語). The Royal Society. 2020年10月21日閲覧
  6. ^ a b c d e McElroy, Martin (2009). "Talbot, Charles Chetwynd-". In McGuire, James; Quinn, James (eds.). Dictionary of Irish Biography (英語). United Kingdom: Cambridge University Press. doi:10.3318/dib.008446.v1
  7. ^ a b c d Carlyle, Edward Irving; Matthew, H. C. G. (3 January 2008) [2004]. "Talbot, Charles Chetwynd-, second Earl Talbot of Hensol". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/26924 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  8. ^ "Talbot, Earl (GB, 1784)". Cracroft's Peerage (英語). 21 February 2003. 2020年10月21日閲覧

外部リンク 編集

公職
先代
ウィットワース伯爵英語版
アイルランド総督
1817年 – 1821年
次代
ウェルズリー侯爵
名誉職
先代
アクスブリッジ伯爵
スタッフォードシャー統監英語版
1812年 – 1849年
次代
アングルシー侯爵
先代
スタッフォード侯爵
スタッフォードシャー首席治安判事英語版
1828年 – 1849年
グレートブリテンの爵位
先代
ジョン・チェットウィンド=タルボット
タルボット伯爵
1793年 – 1849年
次代
ヘンリー・チェットウィンド=タルボット英語版